夢のおさとしを頂いて(前編)

 

 もう63年前に遡ったお話でございます。

まあ普通でございましたら、もう忘れてしまっているような出来事でございますけれども、神様のお話というのは、こうやって勤めさせていただきますと、自然のうちに口を通してお話ができるので、いつも私は、不思議だなあ、なるほど、神様のお話というのは、自分がしゃべっているんじゃない。考えて申し上げているわけではない。神様がそれぞれの口を通して、皆さんに必要なことを、またそのときは必要でないかも分かりませんが、聞かせていただいて、しまっておいてくださいますと、あのとき聞いただろう、あの話をもって通れば、ここはしのぐことができるよと、会長様が教えてくださるんですねえ。

 

今日お話申し上げることは、実は先回、私は動画のなかで、身上をいただきましたことについてお話を申し上げて、皆さんに聞いていただきましたが、もう一つ、お医者様から言われたことがございました。

それは、「あなたは、病名を付けたら心臓弁膜症という病名が付きます」とおっしゃった。「しかしながら、もうお歳をとっておられますから、じゃあその弁膜を、手術をいたしまして新しいものに取り換えてということは不可能でございます。ですから、だんだん弱ってきた弁膜と、仲良く通っていただくより他にございません」

まあこんなふうに言われまして、私は改めて、自分の体の中の構造を、お医者様に教えていただきました。「ですから、あまりこれからは、走って歩いちゃいけませんよ。静かにゆっくり歩いてください」とこうおっしゃるんですねえ。

お医者様の説明によれば、「まず10の血液が心臓の中から体内に送り出されるときに、あなたは、10の中の3つしか体内に送り出されない。じゃあ後の7つは、どういうことになるのかというと、弁膜がいらんところで蓋をしてしまう。そのために、血液が逆流をして心臓の中に入っていってしまう。言うなれば、あなたは、3つの血液、3つの目方の血液で動かされているんです」と。

こんな説明をいただきまして、ビックリいたしましたが、「いかがですか?立ち眩みをすることはありませんか?坂道を歩いて息が弾むようなことはありませんか?お話をしていて、息が弾んでしゃべれなくなるようなことはありませんか?」とこんなふうにお尋ねをいただきましたが、「いいえ、ございません。ございません」とこう私はお返事を申し上げるなかに、改めて親神様に生かされているということを、悟らせていただきました。

自分で生きているんなら、とてもとても怖くて生きられません。けれども、親神様にこの身体は守られていると思うと、ああお任せすればいいんだ、それならそれなりにお任せしていけばいいんだという、こういう気持ちを持たせてもらえるということは、人間ではできませんが、神様に守られて、生きているんじゃない、生かされているんだということは、誠に尊いことであり、ああお道を聞かせていただいて本当に良かったと、まあ今更ながらのように、ありがたく思う日々(にちにち)でございます。

 

話は変わりますけれども、私は、63年前の昭和23年になりましょうかねえ。もう63年も経っておりますから、年代は定かではございませんが、昭和23年の8月の13日に、愛町分教会に入り込みをさせていただいて、入り込み者の末席を汚すことになったということは、先回申し上げさせていただきました。

その折に、会長様が私の母に向かって、「お母さん、安心してください」とこうおっしゃって、「5年経ったら、初子に立派な婿を与えて、故郷に錦を飾らせますよ。私がお預かりしたんですから、どうか安心をしてください」とこうおっしゃってくださいました。

母の大変喜んだ顔を、私は忘れることができません。「会長様、お願いを申し上げます。もう入り込みをさせたうえからは、私の子どもではございません。神様の子ども、会長様の子どもでございますから、どうぞよろしくお連れ通りくださいますように」と申し上げて、その会長様のお言葉をありがたく、本当にありがたくお受けをさせていただいたと思うのでございます。

さて、5年という月日は早うございます。あっという間に5年という年月が流れましたある日のこと、私は、今でもその夢は忘れることができません。はっきり瞼(まぶた)のなかに残っておりますけれども、何とも言えない不思議な夢を見せていただきました。

夢のお伺いをいたしますと、会長様がいつもおっしゃることは、「なんだか知らないけど、訳の分からない夢を見ましたねえという夢は、理が無い」とおっしゃいました。「はっきり覚えている夢は、理があるよ」と。

「そうして、お道の者はね、夢で理を消すのがいちばん上手な助かり方だよ」とこんなふうに、夢のお伺いをするとおっしゃってくださったことを、よく覚えております。

私は、会長様に夢のお伺いをいたしました。すると会長様がおっしゃいますのには、「それは、お前さんの前生の姿だよ」と仰せくださいました。

会長様が、「それはねえ、お前さんの前生の姿だよ。お前さんは、前生高い暮らしをしておった。高いところにおって、人を意のままに動かして通った道がある。例えてみれば、具体的に話をすれば、ああ皆さんが、あの人は悪人だよという人でも、自分に取り入って珍重してくれる人は重く用いた。あの人は良い人ですねえという人が噂をするような人であっても、自分に為にならない人間は倒(こ)かしてしまった。使わないばかりでなく、闇から闇に葬って倒(こ)かしてしまった。そういう道を通ってきたんだ。これほど、人間として薄情な道はない。だからお前さんは、今世は、このまま行ったらお金にも困ってくる。物にも不自由してくる。そうして、人から情がもらえない。しまいには、自分の命さえ持って通れなくなるような、気の毒な運命に落ちるところであった。けれども、良い時旬を得て、僕のところに神様が連れてきてくださって、そうして、これから通らせていただくなかに、お前さんは、自分のことを考えて信仰してはいけないよ」とおっしゃいました。

そういう前生を通ってきている。人さんから情がもらえない。ああ、あんなに良くしてくださる。私のことを考えて良くしてくださる。じゃあ、あの人を頼ってこれから通らせてもらおうかと思うと、頼りにするようになると、相手が薄情になって頼りにならない。

「頼っていくと、相手が薄情になって頼りにならない。それは、向こうさんじゃないよ、お前さんの方にあるんだ」とおっしゃいました。

「薄情にされなければならない因縁は、その夢のなかに教えられている。だから、これからは、お前さんはこのお道を聞かせていただいて、助かろうとか良くなろうなんていうことは微塵も思って信仰していってはいけないよ。人さんが喜んでくださることを自分の喜びとして、人さんが助かった姿を見て自分の助かりとして、一代命のある限りこの道を通らせていただいたら、なんとか来世は助かっていくだろう。僕もそうだ。小さいときには、あんな可哀想な子どもが千人万人に一人あるかと言われるような、気の毒な運命のなかにあった」

会長様は、目を患われたことがあったそうです。なかなか、あの心定め、このお詫びと、お願いをなさいましてもご守護が頂けなかったそうです。そうしたなかにふっと心に思い当たったことは、いったい自分の前生は、どんな道を通ったんであろうかなあということなんです。

いろいろと調べさせていただきましたら、前生は、三河の出であったと。愛知県の三河の出であって、たいへんな資産家だったようですねえ。

 

(前編)以上

 

 

 

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