通りにくい道こそ助かる道(前編)
日本の国々所々におられるよふぼくの皆さん、お元気でいらっしゃいますか。また、世界の国々のよふぼくの皆さん方、お元気でいらっしゃいますか。
遥か離れた日本の伊豆の国から、改めて暑中お見舞いを申し上げます。
では、これからしばらく、神様のお話を聞いていただきます。
この7月の昨日16日、本日の17日、67年前のこの日は、私どもにとって忘れることのできない出来事が起きた日でございます。私は、過去に決して追従する者ではございませんが、過去を忘れてはいけない。
そうして、現在また将来にそのなかを見つめて、そうして前向きの姿勢で、通れても通れなくっても、初代会長様に教えていただきました天理天則に添った人間の道のほんの一コマを、本日はお話をさせていただいて、皆さんに聞いていただきたいと思うのでございます。
67年前の7月16日という日は、私は、その当時は、沼津というところにおいていただいておりました。
朝早く、トントンと戸を叩かれまして、戸を開けて出てみると、ご近所におられる息子さんでございますけれども、陸軍の将校でいらして、その息子さんが、「遠藤さん、今日は必ず、アメリカの戦闘機がやってきますよ。私はこれから御用邸の警護に行かせていただきます。心して通ってください」と言うて、言葉を残してあたふたと行かれました。
そう言われましても、いったい今日のいつ来るのか、いったい何機でやってくるのか、さっぱり分かりませんねえ。もう1日不安な気持ちで過ごしまして、夕方も日も暮れました。
ああやれやれ、1日命が延びたのかしらんと、やれやれとホッと家族がいたしておりましたところが、外のほうで、「きたぞ!きたぞ――――!!!」という怒鳴る声が聞こえてきました。
外へ出ますと、消防団の方々でしたねえ。「きたぞ、きたぞ―――!逃げろ―――!逃げろ――――!」って言うんですねえ。
そうして私は、この狩野川の方向を見て、その前にこうやって空を仰ぐと、もうそのときすでに、警戒警報から、空襲警報が発令されておりましたから、真っ暗闇のなかに、空から提灯(ちょうちん)がふわりふわりと浮いているように、もうその沼津の空をいっぱいにこう埋め尽くして明るい。
さあ、いよいよきたんだなあと思ってですねえ、防空壕といいましても、女ばかりの家族でございますから、大した力はございません。たった7円出して、素掘りの防空壕を、まあ一畳か一畳半あったでしょうか、素掘りの防空壕を掘ってもらいまして、そして警戒警報っていうと、そこに大事な物を詰めまして、上からトタンを2枚ほど乗せて、それで終わり。そんな防空壕で助かると思えない。でも仕方がない。
まあそのようにして、その日はなおその上に私は砂をかけて、そうして家族4人、どんなことがあっても手を離しちゃいけないよ。離したらもうどこ行ったか、わけわからなくなる。死んだも生きたも分からない。
こうして、母は、初代の会長様から頂いたお手紙を背中に背負いました。
そして、私たち姉妹3人でね、母と手をつないで、どこへさあ逃げようと思ったときに、土手に上がって、狩野川のほうに一時退避しようかといったらいけません。もう狩野川は火の海です。
照明弾を落としたあと、日本は木の家ですから、火をかけられたら、ひとたまりもありませんよ。そのあと焼夷弾が落ちて火の海。
そうして、今度は香貫山(かぬきやま)のほうに、350メートルぐらいの丘のような山ですねえ。そしたらまあ今でも忘れることができませんが、山いっぱいに提灯に火を付けて、それが燃えて、ブワァー。火の山です。それもいけない。
さあて、いずれにしても、八間道路に出ようか。広い道というと、その八間道路しかない。御用邸がございましたから、沼津の駅からこの御用邸まで、八間道路というのを市が作ったんです。そこがいちばん広い道ですねえ。そこへ出ました。
しかし、まあ本当に阿鼻叫喚(あびきょうかん)。そこを上ったり下ったりする人たちが、山のように背負ったり、馬力にいっぱい荷物を引いたりというふうで、行ったり来たり、てんでにわけのわからんことを、わあわあわあわあって声を立てながら行ったり来たりしている。
ああ…なるほど、お釈迦様が阿鼻叫喚(あびきょうかん)、地獄絵図というのは、これを言うのかなあと思いましたねえ…。
そうしたところへ、敵のグラマン機がたった3機ですよ。浜松のほうから入ってまいりまして、そうして富士山に向かっていくんです。
そうして、どこへ行くのかなあといったら、そのうちに3機入ってまいりましたけど、東京湾の上空に脱去いたしましたという放送がかかった。
ああやれやれ、今日も命をもらったなあと思っているうちに、今の「きたぞ!きたぞお――――――!!!」っていう声なの。
脱去と見せかけて3機が戻ってまいりまして、そんな大きな町ではございませんから、燃え尽くすのに3時間あれば何にもなくなっちゃう。
押され押されて、4人が手だけは離すまいとして、押され押されて出たところが、細い川の流れているところでございました。
そこに立っている男の方が、普通もうねえ、そんな小さいところへは入れてくれないの、自分たちの命が惜しいから。小さな石橋がかかっているだけなんですよ。
でも、そこに立っていた方が、「何をしているんですか!そんなところにいたら殺されますよ。入んなさ―――い!」って言ってくれた。
ハッと私たちは電気に打たれたような気持ちになって、言われるまま、タタタタタッとその中へ入ったら、もうすでに10人ぐらいの方が、このくらい(おへその辺り)まで水に浸って、その石橋の下に入っている。「ああ、お入りください」と入れていただいた。
まあその上に、雨霰(あめあられ)といいますけどね、雨霰のように焼夷弾が落ちたんですよ。それでも、不発で終わったの。不発で終わったんですよ。
神様、初代の会長様のお徳の素晴らしいということは、年を経つほど私は思わせていただく。ああ今ここにいる私たちも、生きているんじゃない、神様に生かされているということを、しみじみと私は実感をさせていただく。
生きているんじゃない、生かされている。なんのために?
このお道の信仰を聞かせていただいて、命のある限りお道を通らせていただき、また人さんにも、このすばらしい神様のお話を聞いていただくために、私たちは生かされているということをね、昨今しみじみと思うことが、数々、世の中の成り合いというものを見せていただいて、通感をさせていただいております。
このときに、私の母は、「みなさん!聞いてください」と。
勇気がいりますよ。どんな人がいるか分かりゃあしない。どこの誰べえも分からない。
「私は、通り吉田の遠藤ハルと申しますが、名古屋にある愛町分教会の信者でございます。これから私は、南無天理王命(なむてんりおうのみこと)と唱えさせていただきますから、皆さん方も、どうか一緒に唱えてください。必ずや、命を助けてくださいます。お願いします」
はじめは、私たちだけが唱えておりましたけど、そのうちに、そこにいる人たちが一人残らず、両手を合わせて唱えてくださったんですよ。
このお話は克明に、以前にホームページで私は入力をさせていただいておりますから、ご存じの方もたくさんあると思いますから、今日はそのお話ではございません。
そうして、命を助けていただきました。本当に奇跡のご守護だと思うのです。
なぜ、奇跡のご守護かというと、私どもが退避を致しましたその川の上流で、私のいとこが、敵機の焼夷弾に、お腹に直撃をくらって即死をしております。同じ川の上流に退避をしていたんですよ。私より年下でございますけれども、ここ(お腹)に破片を受けて、即死をしている。
本当にそこの中では、一人も怪我をする人もなく、気を失う人もなく、再会を約してお別れをいたしました。
ああ大体この辺だな。もうとにかく、なんにも目標がない。この炎天下に、影もないんですよ。とにかく丸焼け。駅までずーっと見通されるんですから、なんにもない。木一本ないんです。木一本茂ってないの、みんな焼けちゃって。
でも、この辺だなあというところへ来て分かったのは、そのたった7円の素掘りの防空壕が、火にも焼けないで、ご守護をいただいていたということなんです。もうその上に大きな、古い家でございましたから、大きなこの梁(はり)が落ちて、ぶすぶすぶすとまだ燃えていた。にもかかわらず、その防空壕の中は火が入っていなかった。
このお話は、亡くなられた大野佐七先生が本にお出しいただいておるから、ご存じの方もあると思います。
こうしてねえ、皆さん方は昔の話だから、はあーん?って聞いているかもしれないけれど、皆さんの先祖は、みんなそういうなかを通ってきたの。
これからだんだん猛暑になってきて、テレビで言っているでしょう。熱中症にかからないように、暑くなったら冷房の部屋に入って体を冷やしてください。そんなあなた、ことはない。なんにもお日様を遮るものない。雨が降っても、雨にぬれっぱなしですよ。そういうなかで、命だけは頂戴をいたしましたね。
私は、その焼け野原に立って、あのときの気持ちも忘れられませんねえ。ああとうとう焼けてしまったなあ、さて、これからどうして通ったらいいんだろうと思いました。どうして通っていったらいいんだろう…。
大野先生は、「会長様のお言葉ですよ」と言って、あるとき、私が尋ねました。「先生、愛町の信仰をさせていただいたら、それでは火にも焼けませんか?空襲になっても、周りは焼けても私の家は焼けませんか?」って言ったら、涼しい顔して、「ええ、焼けませんよ」とおっしゃった。
「ああそうですか。そういう天理教なら、私も聞かせていただきます」といって聞かせていただいたの。それなのに、これみんな焼けてしまった。
どうしたらいいもんだろうと思っていましたときに、もう駅からずーっと御成橋(おなりばし)から見えるんですから、なんともいえない気持ちですよ。やることもない。防空壕の上に立って、呆然とこうやって眺めていたときに、あれえ?あれは確かに、どうもあの格好からすると大野佐七先生のように思う。まさかなあと思っていた。
そしたら、だんだん近くへ来たら、大野先生なの。大野先生がみえてくださったんですねえ。
当時、大野先生は、教会半分・社会半分という信仰をなさっておられた。そうして、会長様から電話が入りまして、「沼津が空襲で焼けた。遠藤の家は女ばかりで、さぞかし難儀をしているだろう。お前さんすぐこれから行って、おたすけをしてやっておくれ」と、そういうお電話を頂いたそうでございます。
お電話を頂いたからって、すぐ飛んでこれるもんじゃあございません。当時は国鉄ですけれども、途中で空襲になれば、汽車から降りて物陰に退避をしなきゃならない。何遍もそういうことを繰り返して、まあ着いたというより、辿り着いたというのが本当でしょうねえ。そうして、みえてくださいました。
私は女ですけど、姉妹(きょうだい)で助け合って、トタンが焼けて残っていますので、その防空壕の上に、その焼けトタンを上手に組み合わせて、雨が降らないように、なんとかこの防空壕の中でしのげるように、まあ作ったんですねえ。
その防空壕の中で、大野先生と家族が向かい合って座らせていただいて、会長様のお言葉を頂くことになりました。
そのときの会長様のお言葉は、何とおっしゃったかというと、「遠藤さん、昨日までの遠藤を捨てて、今日から天理教の遠藤になってください」
「今日から天理教の遠藤になってくださいということは、具体的に言うて先生どういうことですか?」と母が尋ねました。
そういたしましたら、大野先生のおっしゃるのには、「会長様がおっしゃったお言葉と思って、受けてもらいたい。あなた方はここを出て、この土地は本家にもらっていただきなさい」
「では私たちは、一体どこへ行ったらいいんでしょうか?」って母が尋ねました。
そうしたら、「あなた方は、あなたのお在所に、しばらくの間、目鼻が付くまで居候をさせてもらいなさい」
「ああ先生、それは、私はできません」母は申しました。「故郷に、ふる里を出て行った者が、故郷に錦を飾るならいざ知らず、焼け出されて、乞食同然になって故郷に帰ることは、死んでも私はできません。それはお受けできません」
当然のことですよ、皆さん。皆さん方がそういう立場になったときに、「はい。お受けをいたします」って言えるでしょうか。恐らく100人のうち100人、私は言えないと思いますよ。
けれども、そうしたお話し合いのやり取りのなかに、母が思い出したことがあった。
信仰の始まりにね、この私どもが住んでいる土地が、たいへん良い土地であった。将来性のある良い土地であった。それで父の兄弟たちが欲しかった。欲しかった、その土地を。
そういう事について、会長様にお尋ねをしたときに、「その土地は、因縁の土地だよ」とおっしゃった。「因縁の土地だから、欲しいと思うな」とおっしゃいました。
「その土地は因縁の土地だから、欲しいと思うな。欲しいと思わなくっても、このお道の信仰をさせていただいて、僕と神様の言うことを聞いて通ったら、やがての日に、今お前さんたちが住んでいるこの土地の何層倍かの地所の上に、そして門構えの立派なお座敷に、座らせてあげるよ」と、そういうお言葉を頂いたことがあったんですね。
この土地を欲しいと思うな。欲しい人があったらあげなさい。無償であげなさいということですよ。
「その代わり、裸に今なっても、このお道の信仰を聞いて、天理天則に添って、通れても通れなくっても、曲がってもくねっても通る努力をしていったら、やがての日に、この土地の何層倍かの地所の上に、しかも門構えの立派なお座敷に座らせてあげるよ」と、このようにおっしゃっていただいた事があったことを、母も私も思い出しました。
ああやっぱり、まだお道を聞いたばかりでございます。聞いて間もなくこの空襲でございますから、お道がよく分かっておりません。分かっていない。だから、会長様は無理なことはおっしゃらなかったと思いますけれども、そういうことを信仰の当初に聞かせていただいたことを思い出しました。だんだんの大野先生のお話のなかから、もう夜もしらしらと明けてきた。まあその焼けトタンの釘の間から、ぽつりぽつり夜露が落ちてくるわけ。みんなもうびっしょりぬれちゃっている、夜露で。大野先生も同じこと。
夜がしらしらと東の空が明るくなりかけたなあと思う頃に、母が、「心が定まりました。会長様の仰せのとおり、この土地は、本家にもらっていただきます。そうして、私どもは、里にしばらく居候をさせていただきます。おっしゃるとおり、お受けをいたします」と言うて、大野先生にお答えをさせていただいたのでございます。
まあ大野先生も、たいへん難しいおたすけであったと思いますが、ホッとなさって、「ああ遠藤さん、ご苦労さんだ。私もそうだ。あんたも頑張ってください。この事は、さっそく教会にまいりまして、会長様にお伝えをさせていただきます」と言って、袂(たもと)を分かって名古屋のお教会に行っていただいたのでございます。
それが、16日の日に空襲に遭いまして、明けて17日の朝の出来事でございました。(後編へ続く)
(前編)以上
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