徳を積ませて頂く事について(1)

 

 おふでさきの中に、『日々に、心尽くした物種を、神が確かに受け取りている』と。

 

日々に、心尽くした物種を、神が確かに受け取りていると、このように、教祖(おやさま)がおふでさきの中にお示しをいただいておりますが、時折、初代の会長様からも、教祖(おやさま)のおふでさきとして聞かせていただいたことがございます。

 

私どもがお教会に入り込みをさせていただいて、お勤めをさせていただいた時代というのは、初代の会長様が、最も盛んに布教活動をなさった時代と思わせていただくのでございます。それは、外に対しての布教ということよりも、だんだんと入ってまいります入り込み者のおたすけでございました。

当時は、私どもは、ねじり鉢巻きこそいたしませんが、たすき掛けで尻っぱしょりで、もう朝目が覚めると夜休ませていただくなかに、自分の事ということはまったくする時間というのはございません。それじゃあ、自分の事はいつするのかと、夜、寝る間を裂いて、勤めさせていただきました。それでも馬鹿だと言われてですね、てんつく、てんつく、真っ黒になって働かせていただいておりました。

そうしたなかに、人間でございますから、時としてふっと立ち止まって、私はこれでいいのかしらん?これでいいのだろうか?と迷うときが時折ございました。

神様の思召しを頂いて、前生の因縁と家柄の因縁を神様がご覧くださって、これなら良かろうとして神様がお選びをくださって、自分で入り込みをしたんじゃあない、神様が入り込みをさせてくださった。ああこれがいちばんいい道だよといって、神様が選んでくださったんですね。

世の中では、自分の道は自分で選んでいきます。けれども、お道の信仰というのは白いというたら黒いぐらい違う。神様に選んでいただいている。たとえ嫌いであっても、神様の思召しがあったら、入り込みをさせていただくように順序が付いてくる。好きでもなかなか入れない方もございます。

そうしたなかに、自分で選んで、ああお道は大好きだ、この信仰ならいいとして入ってきたわけではないのですから、時としてふっと立ち止まって、自分はこれで本当にいいんだろうかと、迷うときがございました。

そうしたときに、なんにも申しませんけれども、会長様に理がうつっていくんですねえ。お前そんなことを考えていちゃいけないよということはおっしゃいませんけれども、それとなく、これとなく、教えてくださいました。

それはどういう事をおっしゃったかというと、「お前さんねえ、今のこの通る道を、決して」とおっしゃったね、「決して嫌な気分で通っちゃいけないよ」とおっしゃった。

「嫌な気分で通っちゃいけないよ。先へ行ったら必ず、ああこんなけっこうな道があるとは知らなかった、こんなけっこうになるんなら、もっと早く聞かせていただいていたら良かったと思うときが必ずくる。けれども、今、不足不足で通っていると、年限経って忘れた頃に、どうしてこんな事になってしまったんだろうという、つまり足りない事が起きてくる。だから、今を喜ばせてもらうんだよ」と教えて頂きました。

そりゃあ喜べないですよ。ご苦労さんなんて言っていただくことはない。自分としては、一生懸命教えていただいたとおり通らせていただいているつもりでも、「何をやってるんだあ――!」というお仕込みになっていくわけですね。時には、人さんのやった事でも名指しをされて、「お前やったろう」とこうおっしゃる。

とてもとても人間考えではね、通れません。やってもいない事を、やった事でもなんとか逃げて、やらなかったふうに逃げて通ろうと思うのが人間の考えでございます。それを、会長様は、理が迫ってくると、人のやった事でも「お前やったろう」と。「あのー、それは…」とお言葉を返そうとすると、パッと抑えられる。

「お前さんが本当にやったのか、やらないのか、自分と神様が知っているだろう。誰も知らなくっても、神様が知っていたらそれでいいじゃないか」とおっしゃるの。

もうなんにも言えませんね。まあ自分がやったとおっしゃるんですから、「申し訳ございません」と言って頭を下げなきゃならない。だけど、頭は下げているけど、なかなか心の中まで、ああ本当に申し訳なかったと思えませんね。

まあ皆さんはそういうなかを通ったことがないから、話に聞くだけかも分かりませんけれども、私たちはそういうなかを通らせていただきました。自分で選んだ道ではない、神様が選んでくださった道を通らせていただいたのです。

けれども、会長様が、「神様が選んでくださった道は喜べない、人間で言ったら。けれども、それを喜びに変えて通らせていただくと、年限が経って忘れた頃に、ああこんなけっこうな事があると思わなかった。ああありがたかったなあ。こんなにけっこうになるんなら、もっと早くお道を聞かせていただいて通らせていただけば良かったと思う日が必ずくるよ」とおっしゃったのです。

それは、会長様ご自身がそうしてお通りになられたから、おっしゃっていただけるお言葉ですね。お通りになっていらっしゃるから、もうそのひと言で、ああ本当にそうだ、そうに違いないと思ってね、思いを変えて、喜べないことを喜ぶように、喜ぶように努力をして、通らせていただいてまいりました。

 

お教会に入れていただいて、早いもので64年を数えます。20代で入れていただいて、ただ今もう90歳になっている。

私の周りの方は、ほとんどの方がもういらっしゃらない。親しくしてお付き合いをしていた方、学校のお友達、ほとんどの方がいらっしゃらないね。ああ90歳ということはそういうことなのかなあと、最近つくづく思うんですね。

でも、命のない者が、「お前さんはこのままいったら、頭(気違い)にくるか、胸(肺病)にくるか、一家は散り散りバラバラになって、みんな死に絶えてしまう因縁の家柄だよ」それを助けようという、神様が助けてあげようという。ウハハ、ウハハと、面白おかしく通れるものじゃあございませんね。でも、そういうなかを通らせていただいたということが、年を重ねて、ここまでまいりまして振り返ったときに、初代の会長様が、「お前さん、今を喜べ」今というのは、馬鹿だのと言われて、ねじり鉢巻きこそしないけれど、たすき掛けで真っ黒けになって、てんつく、てんつく、てんつく、朝目が覚めて夜休ませていただくまで働かせていただいた時代です。「それを喜ばなかったら、先へ行って喜ぶ理はないよ。今を喜びなさい」

そうして、お道の者は、何にもできないようでも、夜中でも用事とあらば叩き起こされます。「起きろ――!」という。そうして、御用をすることができます。「けれども、どんな立派な信者さんでも、じゃあこれで失礼させていただきますといって帰られたら、もう役に立たないだろう」と会長様がおっしゃった。役に立たないだろうと。

「また、こういう事をあの人に頼みたいけれど、今いるかい?いやあ、まだ教会へ来ておりません。それじゃあ、すぐ電話を掛けて来るようにお願いしなさいと言っても、来るまで役に立たない。けれども、お前さんたち入り込み者は、寝ていても徳を積んでいるんだよ」とおっしゃいました。ああそうか、ただ寝ているんじゃない、そういうことかと。

ですから、今日でも、いろんなおたすけのなかに、お若い役員さん方ともお練り合いをさせていただくことが時折ございますけれども、会長様が、私ども仕込みの時代にこうおっしゃってくださいましたよ。あなたは教会にお勤めをしているといっても、夜泊まっていらっしゃいますか?ああ5日間勤めさせてもらっているといっても、泊まって5日間勤める人と、毎日毎日通いで5日間勤める人とは、全然違いますよと、会長様こうおっしゃってくださった。

だから、今あなた、その困った事を解決をするということは、何ももっと一日勤めなさい、もっと二日余分に勤めなさいということじゃないの、勤めたって毎日帰っていたら何にもならない。今の5日間で良いから、泊まって、丸々神様に御用をさせていただきなさい。その心が定まったら、神様がはたらいてくださいますよと、こういうおたすけをさせてもらえる。お受けになる方は、ちゃんと困った事を解決していただいております。

まだ皆さん方のなかで、それじゃあ2日泊まっている、教会の5日勤めがございますけど、布教所に、ああ1日泊まっている、3日泊まっているっていう人ない。通っては来てくださる。ですからねえ、そこのところなの。ただのものはひとつもないと言うけれど、このお道の信仰は、徳を積ませていただくということなの。けれど、徳を積ませていただくということは、高い気分では徳は積めません。

 

あるとき、初代の会長様が、雨の降った日に、お廊下にお出ましになって外をご覧くださっていた。

私はおそばに伺いますと、「見てごらん」とおっしゃって、「降った雨は、決して高いところに流れていかない、(低いところ低いところ寄って流れてまいります。)そして、水たまりに溜まっていく。このように低い心になると、困らなくなるよ」とおっしゃった。

「水の溜まるように、お金も溜まってくる。物も溜まってくる。人も寄ってくる。僕ほど、この教会で低い人間はないだろう」とおっしゃった。俺は偉いんだなんておっしゃったお言葉を伺ったことがない。

「皆が、助かった助かったということを聞かせてくれるけれども、一体どうして助かるのか、実際、僕自身で分からないんだよ」ということをよくおっしゃいましたね。

へえー、会長様もお分かりにならない。へえーと言って、そういうお言葉を伺うと、いつも私は首をかしげて不思議に思いましたね。そのくらい会長様は低ーい心をお持ちになっていた。

ですから、「お金はね、要らんときにあったって、これ人に盗まれたらいかん騙されたらいかんでどこへ隠しておこうと。畳を剥がしてしまおうか、天井裏剥がして天井へしまおうか。大変だろう」とおっしゃる。

「けれども、入り用なときに入り用なだけあればお金はいいだろう。要らんときにあっても邪魔じゃないか。要らんお金を持っていて人に騙されたり殺されたりする人もある。ああこういう人が来てくれるといいがなあと思っていると、あなたのそばで働かせてくださいと言って、立派な会社に勤めていても、その会社を辞めてまで僕のところへ来てくれる。」

この力。ああこれだけお金があるといいがなあと思うと、入り用なだけちゃんと神様が入れてくださる。こういう物があるといいがなあとおっしゃっていると、ちゃんとそういう物が入ってくるんです。

私どもはこうやって聞かせていただくと、「あのー先生、何か会長様に喜んでいただけることがしたいのですけど、おそばにいらっしゃるんですから教えてくださいよ」と、熱心な信者さんに言われるときがよくございました。でも、私はね、申し上げない。

「あなたが良いと思った事をなさったらいいじゃないですか。それが誠真実で、人に言われたから、ああそうですか、じゃあそうしましょうでは、あなたが半分徳をもらって、言った私が半分徳をもらって、つまんないでしょう。あなたが本当に会長様に喜んでいただこうと思ったら、神様があなたに教えてくださいます」

また実際、私が「ああこういう物を持ってきてくださるとね、この間、会長様こういう物があると良いなあとおっしゃっていたから喜ばれるよ」って私が教えてあげて、「ああそうですか、じゃあそれをお持ちしましょう」って持っていっても、「ああそうかい、ご苦労さん」とおっしゃるだけなの。会長様はお喜びにならないの。

けれど、会長様を心に思って、私はいつもこれはどういうふうに成ってくるかなあと思って眺めていると、2〜3日すると、「会長様、どうぞお使いになってください」と言って持ってきてくださる。すると、会長様が、「これが天理教だよ。お前さんたち分かったかい」とおっしゃる。

「これが分かったらね、天理教は、楽しみで、楽しみで、やめられなくなるよ。僕は分かったからやってみた。やって確かに間違いのない道や」とおっしゃいました。

本当の話なんです。だから、私は絶対、人間で事を致しませんでした。怖いから。会長様も「人間でやっちゃいけないよ」とおっしゃる。

「これが分かったらね、天理教は、やめられないじゃない、楽しみで、楽しみで、やめられなくなるよ。僕は分かったからやらせていただいた。やらせていただいて、確かに間違いがないから、皆さんに教えているんだから、みんな僕の心が分かったら、しっかり道はおやりなさい」

やらさせていただくの。徳は積むんじゃないんです、積ませていただくんです。

積んだ行いは、もうそれで終わります。ああご苦労さんでしたで終わりますけれども、そこに積ませていただいた誠真実は残りますから、一粒万倍になってちゃんと返してくださる。

それがお分かりになったから、会長様はなさったの。なさって、確かに間違いがなかったとおっしゃる。「だから、僕の言うことを聞いたら、日々のなかに実行に移していきなさい」とおっしゃった。

「お道の者は、朝目が覚めて、夜休ませていただくなかに、どうやったら少しでも徳を積ませてもらえるかな、どうやったら少しでも因縁を消させていただくことができるかな、これだけ考えて通ればいいんだよ」これがね、徳を積ませていただくことなの。

形の上では、分かりましょう、皆さん。だけど、うっかりしていると、神床に上がって白衣を着て神様の御用をしている人よりも、真っ黒けになって庭掃除をしている人、いちばん汚いところのトイレのお掃除をしている方のほうが、徳を積んで帰られる場合もあります。

だから、高いところの御用をしたから徳が積める、低い用事したから徳が積めないっていうものじゃないの。その人の心の運びひとつということを、会長様が教えてくださいました。

させていただくの。やってやっちゃったんじゃあ、もうご苦労さんでしたで、もう終わりになっちゃう。なんにも頂けない。やらさせていただくの。

やった行いはもうそこで終わりますけれども、そこに心をかけさせていただいた誠真実は神様がお受け取りくださって、お金の入り用なときにはお金、物の入り用なときには物を、人の入り用なときには人を、3日前のご守護とおっしゃいました。半年も1年も前からそういう順序が頂ければ安心でございますけれども、そうじゃない。3日前のご守護なんです、皆さん。これがお道の信仰だと教えてくださいました。

私はこの目で、そうして会長様が教えてくださいましたお言葉を、行いの上でたくさん見せていただいております。なるほどなあ、なるほどなあ。皆さん方は、会長様偉い方ですっていうことしかおっしゃらない。じゃあどういうところが偉いんですかと言っても、話ができない。お話ができない。

私はありがたいことに、会長様のおそばに呼んでいただいて、朝目が覚めて、夜休ませていただくなかに、会長様の行いをこの目で見せていただいている、この耳で聞かせていただいている。

だけど、それを、ただ自分だけが聞いて、自分だけが行って、自分だけが助かればいいっていうものじゃあございません。これを一人でも多くの方におうつしをさせていただいて、ああなるほどそういうものか、そういうことなら今日からひとつ真似をさせていただこうというお気持ちになって、お通りになった方が勝利でございます。

でも、スリッパひとつ揃えるぐらい、こうやってお話しても、なかなか皆さんできない方が多いんです。

スリッパは、履かせていただいて帰るときは、ありがとうございました、あなたのお陰で汚れないで温かく御用ができました、ありがとうございましたと言って、決められた場所へ納めていく人が少ないの、こういうお話しても。

「だから、神様からご覧になると、助かりたくないんだろうか?(助かりたいから聞いていらっしゃるのに)行いは助かりたくない助かりたくないって行いしていちゃあつまらないじゃないか」と会長様はよくおっしゃった。

そうしたら会長様が、お茶碗ひとつお持ちになっても、お箸をひとつお持ちになっても、座っていて「ありがとうよ。ああおいしかったよ」とおっしゃる会長様のほうがお徳を積まれて、一生懸命、会長様に喜んでもらおう喜んでもらおうと思って作らせていただく私どもが、因縁を積んでいる場合がよくございました。

 

あるとき、まだ私どもが伺った当時は、お金があればなんでも買えるという時ではなかったの。ですから、三度のお食事はいずれといたしましても、おやつを、今日は何を作らせてもらおう。お店に売ってないんですから。

今は反対に、手作りのものを皆さんが珍重いたします。お店で買ってきたものより、これは私の手作りでして、ああそれは、まあありがとうございますって、皆さん喜ぶ。戦後は何もないんですから、何でも手作り。今日は何をおやつを作りましょうという。時には、もう会長様だけしか作れない場合もあった、材料がないために。

あるとき、今日は何を作りましょうかというときに、ご婦人の方が、「ああこないだねえ、お饅頭を作ったら会長様おいしいとおっしゃったから、今日お饅頭がいい」とこういうわけですね。私は、いくらおいしいからといったって、そうあんた、こないだ召し上がったばっかりなのにまたお饅頭ということはない。今日はカステラにしてもらいたいけどなあ。まあカステラまがいのものですね。「いやあ、今日はお饅頭がいい」と言い切るわけですね、相手さんが。

作っていただくのですから、私はそれ以上言えない。腹の中では、まあ頑固な人だなあと思って、腹の中ではむせむせしているけど、「そうですか。じゃあお饅頭を作っていただきましょうか」ということになったの。

そうして、お饅頭をこしらえて、会長様はね、フォークだけじゃないの、必ずナイフを添えてお出しして。それを、お饅頭でも四半分にこう切ってね、四分の一、会長様召し上がる。「あと母さんお食べ」

子どもさんのお守りをしてくださる方に、「今日はねえ、悪いけど会長様の分しか作れなかったから、どっか遠くのほうへ、子どもさん遊びに連れて行ってくれない?」と言ったら、「分かりました」って言うけど、子どもさんのほうが早う帰ってきちゃうわけなの。「あっ、お父さんいいなあ!」って言う。まあ頼んだのに…と思ってこっちは思うわけですね。

「お父さんいいなあ!」って言うと、「ああ清ちゃんもおいで、ああ坊やもおいで。おいしいからお食べ」とおっしゃって、あげちゃうわけ。会長様四分の一しか召し上がらない。「おいしいから、みんなに食べさせてあげるんだよ」

私たちは反対だね、社会にいるときは。おいしいものは、閉まっておくわけ。なるべく家族に見つからんように、奥のほうへ閉まっておいて、自分だけおいしいって食べちゃう。内緒で食べちゃう。ところが、会長様は、「おいしいから、お食べ」とおっしゃる。

奥様が、「会長様、おいしいものでしたら、たくさん召し上がってください」、「何を言ってるんだい。社会では腹八分目と言うけど、お道は腹六分目なんだよ」とおっしゃるの。「そうして、食い延ばすことが大切なんだよ」こうおっしゃってね、「おいしいから、皆に食べてもらうんだよ」

そのときにですね、会長様こうやって、ナイフで半分にお饅頭を切られたときに、独り言のように、「おい見ろよ、饅頭まで口をへの字に曲げてやがる」とおっしゃるでしょう。それで私はびっくりして、恐る恐るお饅頭をこう覗いたら、本当にねえ、中に入っているあんこが、口をきゅうっとこうやって怒ったように、結んだようにあんこが入っていたの。そりゃあ口をへの字に結んでやがると言うはずなの、会長様。それから、おさとしが始まりました。

初代の会長様が「これ(お饅頭)を作ってくれた人と、作ってくれたものを運んでくるお前さんとは、夫婦の理合いだ。夫婦は四分六の理。どちらかが六分、どちらかが四分。でも、お前さんは歳が若いから、二分控えめに通らせてもらったらいいんだよ」とおっしゃった。

お饅頭ひとつでもそういうお仕込みなの。もうちゃんと会長様にうつっちゃうの。ですから、「お前さんたちは、僕はここに座っていてなんにも分からない、理がうつってくる。僕はここに座っていて、持ってきてくれたものを、ああご馳走さん、ああおいしかったよって食べて徳を積んでいる。なんにもしないで徳を積ませていただく。お前さんたちは、私に喜んでもらおうと思って、争い合っても一生懸命作って持ってきてくれるけれども、そうやって心で争い合っただけは埃を積んでいる。一生懸命御用をして、埃積んでる。それを、僕はいつも言うだろう。いったいお前さんたちはいつになったら、天理教をやってくれるんだえ。僕は天理教をしているよ。教会は、働き人はおいてない。社会ならそれくらいお前さんたちのように働いたら、使ってくださるご主人が随分と喜んでくださる。けれども、ここは働く場所ではない。理に、神様という理に勤めるところだから、いけないよ」とおっしゃる。

「だから、一生懸命だけにね、お前さんたちの姿を見ると、いつになったら天理教を分かってくれるのかと思うと、かわいそうでね、僕はいつも心の中でね、お前さんたちを見て泣いているんだよ」とおっしゃる。

ああ申し訳ないなあ…。会長様に泣いていただいていたら申し訳ないなあと思うけれども、分からないんですね。魂に徳が備わっていないから、分からない。ただ働くことだけ。確かに働かなきゃ回っていかないですよ、その時代は。だけど、会長様は働くところじゃないと。

つまり、徳を積ませていただくのには、低ーい心になる。低い心ということは、人さんを助けさせていただく心なんです。「高い気分でおたすけしたってねえ、風邪っぴきひとつ治らないよ」と会長様おっしゃった。

だから、おたすけをしたから、因縁が切れるんじゃないんです。低い心になっておたすけをさせていただかなきゃあ、おたすけをして因縁積んじゃっているの。((2)へ続く) 

 

(1) 以上

 

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