天理教 愛町分教会

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天理天則

 

町の初代会長様は「このお道の信仰は、天理教という宗教名がついているけれども、これは宗教だとか信心とかいうそんな軽いものではないのだよ。ではこのお道の信仰は何かというと、拝み頼みの祈祷信心でもなければ、ただ助かったからいいというようなものでもない。神様が前生の善因縁によって結ばれた親子関係をもって、旬刻限がきて道をつけてくださるのだ」と聞かせてくださいました。「しかしながら、人間は誰でも大なり小なり自尊の気分を持っている。自分は間違っていない、自分ほど正しい者はないとして日々通っているから、なかなかお道の信仰ができない。そこで神様は、身上なり事情なり困ったことをお見せくださって、なんとか聞かせようとなさるのだから、道をつけられて、素直な心になってお道を聞かせていただこうとすれば、困ったことは必ず解決をしていただけるものだ」とも教えてくださいました。「ただ、ここで心しなければならないことは、道を聞かせるために助けるのだから、助かった、よくなったとして油断をしてはいけない。つまり、神様があることを人間に教えていただいたわけだ」とも仰せられました。「だから、十年させていただいたからいい、三十年通ったから一服していいというものではない」と、長数年の間、毎日毎日お聞かせをいただいてまいりました。

 

例えてみれば、今は少子化時代で、子供が一人のうちが多い。昔は五人、六人というのは普通だった。それでもなんとか育っていった。それが今、一人や二人でも、大変だというわけですね。国にいたしましても、なんとか人口を増やしていかなきゃいけない。ただ今、出直しをしていく人数と生まれてくる子供さんの人数を比べると、一昨年ぐらいまではとんとんでしたが、去年あたりは生まれてくるお子さんの数がちょっと減っている。ということは、これからだんだん少子化の時代がやってくる。国としても、困ったことなんですね。けれども、ただ産めよ増やせよといっても、生まれてくる子供さんたちには何かしらの応援をしてあげなければいけないということで、政府ではいろんな法案を議会に出しまして、時間をかけまして、政策を決めております。

ところが、初代の会長様は「人間が生まれてから死ぬまでの間、私は貧乏だったから、一代裸で通りましたという人はいないだろう?」とおっしゃいました。そりゃそうですね、裸で町を歩いてる人間なんて見たことがない。なるほどなと思います。だから会長様は「生まれてくる子供は、子供に準じて徳を持って生まれてくる。だから、生まれてくるということは、神様が裸ではおかないよ」とおっしゃいました。また、「立派な大学を出なきゃいけない、大学までいかなきゃいけないと、そういうわけでもない」ともおっしゃいました。「社会を眺めてみると、高校しか出ていなくっても、大学を出た以上の力を持って、活躍している人もいる。立派な大学を出ても、徳が身に付いていないと、高校までしか出ていない人に使われているという場合もある。ですから、これからの社会というのは、学問の力でも通れない」とおっしゃった。「お金があっても駄目だよ。いかに高い立場に置いていただいても、通れないよ」と。じゃあなにが必要かというと、「魂に徳がないと、これからは通れないよ」とおっしゃいました。すでに、四十年も前から初代の会長様はこうおっしゃっているんです。そんな時代がくるのかな、会長様がおっしゃるんだからくるに違いないけどいつくるんだろうかと私は思っていましたが、四十年前におっしゃっていただいたことが、今社会を見ると本当になってきております。

ところが、なかなか社会の人は道を聞かない。初代の会長様は「この教会の門先まで来て、中に入れない人は誠に気の毒だよ。なんとなく入れないのではなくて、神様がこの者は助からんとして入れてくださらないのだから、そういう人間の家へいって米櫃のふたを開けてごらん。中はからっぽだよ」とおっしゃいました。

また会長様は「僕はね、助けてあげるということは一言も言ってない。ただ皆さんが、どういうふうに自分が通ったら助かる道を歩くことができるということが分からないから、こうやってお話をさせていただいて助かる道を説いているんだから、僕の話は聞いているだけではだめだよ」とおっしゃった。「他教会の方でも僕の徳がほしくって、信者さんのような顔をしておまいりをされているということは僕もよく知っている。けれどね、僕の話は聞いただけでは助からないよ。聞いたことを全部が全部即実行ということは魂に徳がないからできない。しかしながら、聞いたお話を一つや二つは覚えているだろう。それを日常生活のなかに、実行に移させていただきなさい」とおっしゃいました。一つや二つ、なるほどそういうもんかと思って、じゃあひとつ実行させていただこうと実行に移して初めて、なるほど神様というものはあるもんだなと思い、確かにあるということを体験させていただくことができるわけです。そして、会長様がおっしゃったように、日常生活に実行に移していくということが助かっていく道でございます。

社会の方は、信仰といったら、座っていて、手を合わせて、棚から牡丹餅だと思っている。だから初代の会長様は「お道を聞かせていただいたらね、お道を通させていただきなさい。因縁どおりの苦労は、お道を聞かせていただいたらもったいない。同じ苦労させていただくのなら、お道の苦労をさせていただきなさい。僕はね、苦労が出てくるとありがたいと思った。また、難儀なことにぶつかると、しめたと思って手を打って喜んだよ。そうして通ってきたら、いつの間にやらこんなに結構になってしまった。その私がこの道の信仰は確かな道であると説いているのだから、しっかり腹を据えてしっかり通りなさい。関東では腹の据わらない人間のことを“ふらっか、ふらっかの風来人”というのだよ」とおっしゃいました。

 

さて、現在、社会では、子供さんを堕すことを平気でやっている。あの人だってやっているのだから、私がやって悪いことはないだろうと、勝手な理屈をつけて。

私が山形に昔巡教に出させていただいた時のお話ですが、ある方のお宅に神様があって、夜のお祭りにうかがった。そして、お祭りが終わりますと、「先生、おねりあいをしていただきたい」とそこのご主人が言われました。「実は、家内に子供ができたようです。ただ、もう年子で四人子供がおります。これ以上子供をいただくと、名古屋のお教会に運べなくなるのです」とおっしゃった。当時布教所はありませんからね。山形から毎月お教会にご夫婦が代わりあって、参拝をしておられた。「堕すということはいけないと重々承知しておりますが、このままではお教会に運べなくなりますから、堕してはいけないでしょうか」という相談でした。大事なお話です。私も、現状を見たらこれ以上お子さんが増えたら、お道は無理だなあということが分かる。けれども、これは人間考えの勝手ですね。会長様は堕してはいけないとおっしゃっていた。「病気をもった人間で例えば胸とか心臓とか腎臓を患った人はお産ができないけれども、そういう人間でも僕は産ませるよ、普通分娩で安産をさせてあげるよ」とおっしゃって、おたすけをしておられた。

だから、「これはとても大事なお話ですから、理の間違いをいたしますと私もあなたも天理教をしていても助かっていかない。それでは、神様にも申し訳ない。あなた方にもすまんことです。名古屋のお教会に帰りまして会長様に理をいただきまして、お手紙を送らせていただきますから、現状維持ということでしばらく待ってください」とお伝えし、教会へ戻ってまいりましたが、その当時、会長様がいらっしゃるとお伺いの人がずらっと列んでなかなかお伺いの機会が持てなかった。返事が書けないからどうしたもんだろうと思っておりましたところ、ある古参の先生が「遠藤さん何をいっているんだい、そんなもの構わない、堕せばいいんだよ」とおっしゃった。ただ、会長様はいけないとおっしゃるんだから、私は納得がいきません。

そうしているうちにやっと会長様にお尋ねする機会をお与えいただきましてね、お話を申し上げたら、会長様は即座に「堕しちゃいけないよ」とおっしゃいました。「身上の人間は、医者があぶないからといって堕胎をさせてしまうけれども、医者も許して家族も許して堕胎をしても先へいって本人がこんな苦しい思いするならいっそ死んだほうがいいというて死ななきゃならない立場に落ちていくよ」とおっしゃった。「刃物で人を殺すわけではないけれども、それと同じことになってくる。先へいって忘れた頃に、自分が死ななきゃならない運命に落ちていくよ。だから絶対堕しちゃいけないよ。生活に困るからといって、裸で生まれてきて一代裸で通った人間はいないだろう。子供には子供なりの徳分があるから、大丈夫だよ」とおっしゃっていだいたたわけです。「だから産ませていただきなさい。産ませていただいてこれじゃあお道ができなくて困ると思ったら、夫婦があって子供のいただけない夫婦が世の中にはいっぱいいるだろう。そういう人にもらってもらえばいい。もらっていただいても堕すことはいけないよ」とおっしゃいました。

私はすぐに、手紙を書かせていただいて送らせていただきました。それから一年経ちましてね、私がまた山形の巡教の御命をいただきまして、その方のお宅にうかがったら、ご夫婦が「まあ先生、今まで産ませていただいた四人の子供を引っくるめても、生まれてきた五人目の子供の徳には敵いません」と口を揃えておっしゃるのです。手をかけさせない。生まれてきた時から親を困らせない。そういういいお子さんだった。そういうわけで、五人になっても、今まで通りご夫婦が代わりあってお教会に参拝をされておりました。

 

それから三十数年が経って、その土地の布教所の大祭にうかがわせていただいたら、その時生まれた女の子さんが、お母さんになっていて、男の子さん二人を連れてね、私のお部屋に訪ねてくださった。私は赤ちゃんの時に見たきりでしょ。それが家庭を持たせていただいて、男の子さん二人いただいていた。主人は修養科は出なかったけども、紋服を着せていただいて、神様の御用をさせていただいていた。そして、今日は先生がお見えになるというので楽しみにまいりましたとおっしゃってくださった。私は涙がとめどなく出てまいりました。水に流されていくはずのお子さんが、神様、会長様のお徳をいただいて生まれてきて、成長して、家庭を持たせていただいて、自分だけでなく主人にも道が入った。こうやって小さい時からお参りさせていただくお子さんにもやがて道が入っていくでしょう。一人から何人かの用木ができて、布教所の御用をされてゆかれる。ああ良かったな、初代の会長様という方は本当にありがたい方だ。人間の道を明らかに、人間の都合なんて一切考えない、通れても通れなくても天理天則に乗っ取った道を明らかに教えてくださったのでございます。

 

このように助かりたい方は、人間で都合が悪くても通りにくくても、聞かせていただいた道を命がけで守っていくことが信仰でこざいます。その時は大変ですよ。けれども、先へいって、ああ良かったなという日が必ずまいります。こんな夢のような結構な日がくるとは思わなかったと、心から神様に御礼を申し上げられる日がまいります。

 

会長様が「道を聞いたら、道を通るんだよ」と教えてくださいました。簡単なお言葉ですが、誠に理の深いお言葉でございます。

会長様は、朝眼が覚めて、夜休ませていただくなかに、常に心の中で神様とお話申しあげてお通りくださいました。「お前さんたちは、僕がついているから、違えば教えてあげることができるけれども、私は誰も教えてくれる人がいない」時として不安に思われて、傍らにおられる奥様に「「母さん母さん、私はこれでいいんだろうか、違ってはいないかえ」と尋ねると「会長様、それでよろしゅうございます」としか言ってもらえない。だから私は、自分で自分を断じて許さない。今、愛町には全国に数万の信者さんがいる。いつどこで会長様頼む頼むと手を合わせているか分からない。だから、トイレに入る時でも「神様、関根は一寸トイレに入れていただきます。しばらくお許しください」と心の中でお願いをして入れていただくのだよ。しかしながら、お前さんたちに僕のように通れというても通れないことは、誰よりも私が一番よく知っているから、そんな無理をいうているのではないよ。ただ、私の万分の一の真似事の信仰ならできるだろう。それで助かれば結構ではないか」とお聞かせいただいております。

かつて会長様にお伺いしたことがございます。「会長様の万分の一の信仰とは、どのような信仰でしょう」と。会長様が教えてくださいました。「私の万分の一の信仰とは、あまった時間、あまった体、あまった事情があったら、人間の勝手に使うのは後に回して、まず神様の御用をさせてもらいなさい。それならできるだろう?それで助かってゆけば結構じゃないか。そうして通らせていただいたなら、やがて年限が経って忘れた頃に、私の万分の一の徳がもらえるよ」と。それでは、会長様の万分の一の徳とはどのようなものでしょうかと重ねてお伺いすると「私の万分の一の徳とは、初めてお道を聞かせていただいた時に困って困ってどうにもならなかった人が、気が付いたら、反対に助かって助かって困るようになったという姿が私の万分の一の徳をもらった姿だよ。そうなったら皆、どうするえ」と仰せくださいました。

 

誠にこのお道の信仰は、天理教の天という字を聞かせていただいたら一代命のある限りという道で、飽きないように、腰をつかないように、ぼつぼつとこつこつと、神様から『長い間ご苦労さんだったなあ。さあ神が礼をいうよ』とおっしゃっていただくまで通らせていただく道だよと会長様からお聞かせいただいております。

現在、社会で当たり前とされて許されている事柄が、会長様のお言葉にあてはめさせていただきますと大変な間違いで、自らが墓穴を掘るようなことになっているのです。そうなっては、誠に人間としてお気の毒です。一つの例をもってお話をさせていただきました。

会長様のお言葉を台として、人間の都合を後にして天理天則に沿う道を教えていただいたおたすけの一つでございました。

 

 

 

 

 

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