野を越え、山を越えて名古屋への道(3)

 

 会長様から呼んでいただきまして、会長様が新聞をご覧になっていらしてねえ、私の顔をご覧になって、「お前さんが殺されているよ」とおっしゃった。

私は、ビックリいたしまして、殺されているといっても私はここにいるのになあと思って、「はあ、はあ」って申し上げたら、「お前さんが殺されている」また同じようにおっしゃって、こうやって新聞を出されたの。

そうして指差されたところを見ると、地方版ですからね、小さい三面記事でしたけれども、まあ今でも不思議に思うんですが、歳も同い年、名前も遠藤初子という同じ名前なの。場所は、ちょっと離れたところですけどね。

その方は、綺麗な婦人だったそうですが、東京へ嫁に行かれて、そうして子どもさんが二人いただけた。けど、お舅さんとの間が不縁。どうもしっくりいかないというので不縁になっていてね、子どもを残して、一人里へ戻っていたというんです。

そうして、お気の毒なことですけれども、当時、闇の買い出しってありましたでしょう。その買い出しの男に、強姦されて殺されたという事件なんです。つまり殺人事件。その新聞記事を会長様がこう見せられた。「ああお前、いい時に入ってきたねえ。本当は命が無かったんだよ。ようく神様に御礼を申し上げておくんだよ」と言ってね、教えていただきました。

 

ところが、そのときに、太田安先生(大野先生のお姉さん)という方が教会に入り込んでおられまして、沼津の方へ巡教に行かれた。

私の家は、神様はお入りいただいておりませんでしたが、母がね、会長様を信じて一生懸命沼津で布教をして歩いていた時代でございますから、何人か聞いてくださる方が寄る。まずそこへ一番先に行かれた先生がお寄りいただいて、おねりあいをしていただく。

たまたま、太田安先生が、沼津へ行くんだからといって手縫いでとても綺麗なお洋服を作られまして、その新しい洋服を着て巡教に行かれた。

沼津の駅で降りて歩きだしたら、えろうサッサッと歩ける。当時のお洋服はね、ウエストをキューッと詰めて下がブワーっとなった、まあそういう洋服でしたが、これはえろう歩きいいなあと思って何気なくパッと右を見たら、どこで裂いたか分からない、ずーっと右の脇が裂けちゃっていた、下まで。

あれまあ…身が裂けるというけれど、これから遠藤さんのところへ伺おうという中で、遠藤さんのとこにも五分の理があるし、私にも五分の理がある。さあて遠藤さんのところで何が待っているんだろうと思って、てくてく歩いて40分もかかるところをおいでになっていただいた。

そしたら家は家で、母のお友達が新聞を持って心配して飛んで来てくれた。みんなでその新聞を出してこうやって眺めているところに、「ごめんください」って太田安先生が入ってみえた。

母が、お友達から、「あんたはとてもねえ、幸せが悪いねえ。初子さんは、名古屋になんか宗教のところへ上がったと言うたけど、そんなところへ、芋の買い出しにでも来ていたの?」と言うて、「気の毒なことだったねえ」と。「いやいや、これは初子ではないんです」というんでねえ。

そんな話をしているところへ太田安先生がみえて、「ああやっぱりねえ、この話を聞く前、私はこういうことがありましてね」と言ってお話をされた。そして、お教会へ帰ってまいりまして、会長様にこのことをお話になったんです。

そしたら会長様がね、「それは、お前さん(太田安先生)にも五分の理あり、遠藤の家にも五分の理、五分五分の理だ。どちらが助かったとも、助からないとも、これからの信仰が大切だよ」と教えてくださったそうでございます。

 

こうして私は、入り込みをさせていただきまして半年目に、明らかに自分の命が無いところを教えていただきました。

無い者だからこそ、社会でいったら通るに通れない因縁の者だからこそ、家の柱でも、まあ一見するとこんな薄情なことはございません。働き頭の者を召されて、家はもう母と妹だけ。父が残してくれた物を一つ一つ売ってはの暮らしでございました。人間考えから考えたら、長女でしょ。でもその時代はね、皆さん、長男とか長女をお教会にお供えをさせていただいた。会長様は、「家で要らん者は、要らん」とおっしゃったの。「この子は親の言うことを聞かんで、しょうもない人間だから、会長様使ってくださいよ。会長様ならなんとかしていただける。そういう子は要らん」とおっしゃった。「家で役に立たない者は、教会へ来ても役に立たん」とおっしゃった。「家でいちばん大切な者を、神様にお供えしてこそ、家が立っていくんだよ」と教えていただいた。だから、当時の入り込み者は、どなたでも皆、長男長女の方が入り込みをされた。ですから私の家だけではないんですね。どこの家でも入り込み者をお供えした家は、そりゃあ砂は舐めるようなことはなかったと思いますよ。けれども本当に大変な中を通ってくださった。

けれども、ああ家はこんなで大変ですよなんて、皆さん言わなかった。私の母も、口が横に裂けてもそういうことは人さんには言わなかった。「けっこうですよ、ありがたいですよ。皆さん、この天理教を聞いたら助かりますよ、聞いてくださいよ」というふうで、家の中の困窮ということは誰にもしゃべらなかった。誰にも言わなかったですねえ。

 

まあ今こう思うときにね、この母があってこそ、私も、お道が通らせていただけたんだなあと、本当に今思わせていただきます。

 

こうして、私はしばらくして会長様に呼んでいただいて、奥で会長様の御用をさせていただくことになったわけでございますけれども、入り込みをさせていただいて、一年ぐらい経ったときと思います。私のすぐ下の妹の武子が、脳脊髄膜炎(のうせきずいまくえん)という身上を頂戴しましたが、これは3日でご守護いただいた。ああありがたいなあと喜んだのもつかの間、それから10日して、今度は腎臓という身上になった。まあそれはそれは、なんともかんともいえない身上だったんですねえ。

私は、私だけじゃない、どなたも教会に入れていただいたら、神様のお三方(さんぼう)に、この身体をお供えさせていただいたんですから、何があろうとも、たとえ親が死ぬようなことがあっても家には帰らん。一代命のある限りというお定めをして入っております。

皆さんからは、「ああ武ちゃんが助かったら、枯れ木に花だよ」と言われた。まあだんだんと身上も悪化していって、これはもう巡教に行ってくださる先生方が、「遠藤さん、いつ亡くなっても、ビックリせんようにね」と。まあそのくらい不思議はなかったんでしょうね。けれども、そういう定めをして入っておりますから、会長様が、お前の妹がもう余命幾ばくもない。いっぺん帰って、最後の見舞いをしておやりとおっしゃいませんもの。私も、会長様ちょっと見舞いにやらせてくださいということは、絶対に申し上げられなかった。

でもね、私は今思うと、それが、まあいろいろ助けていただいた、いろいろの点があげられますけど、これもやはり、助けていただいた元だと思います。もしも私は帰っていたら、妹は出直しをしたと思います。ですから、皆さん方に伺うだけです。

 

そうした中に、母はね、おたすけ先の方が急に気違いになった。満州から引き揚げて来たご婦人で、子どもを連れて里にお世話になっていた。

里の方は、みんな天理教は大嫌い。でもこの方だけが聞いていただいた、主人が蒸発しちゃったから。満州から帰ってくると、家内と子どもを里へ置いて、一旗揚げてくると言って消息不通になっちゃった。なんとか主人の居所が分かりたいということから道を聞いてくださるので、母は歩いて一時間ぐらいかかるところを、毎日のようにここにおたすけに行く。

その日も、知らずにおたすけに行ったらね、「遠藤さん、あんたがね、家の娘に天理教、天理教って勧めたから、かわいそうに家の娘はとうとう気違いになっちゃった。もう来るな」というわけです。

それでも、「おさづけだけでも、かけさせてください」って言ったら、「そんなもの要らん!みっともないから座敷牢を作って今入れてある。もう要らん!」って言って、母はものも食べないで、その炎天干しを、てくてくてくてく一時間もかかって歩いて行って、こうやってドンッて押されたから、コロコロコロッとひっくり返っちゃった。

「もう、来るなー!」というわけです。「みんな、塩ばらまいてやれ!」と家族が言うので、それで母は、「すみません…」と言って帰った。

どうしたらいいんだろう…。そしたら末の妹が、そのとき17歳でしたけれど、「お母さん、その信者さんのこともある。武姉ちゃんも、このままだったら死んでしまうかもしれない。後はなんとか私がするから、お母さん教会へ行ってちょうだい」って言われたの。

この妹のおかげに、「そうか、行ってもいいかい?」「行ってちょうだい」といったってね、家に何があるわけじゃあない。あるお金をまとめて、そして、ああ後はなんとかなるからといったって、お米があるわけじゃない、野菜があるわけじゃない。

それは知っているけど、まあこの妹が少し洋裁の内職ができて、だけどその内職といったって、ミシンを月賦で買いました。ところが買って2、3ヶ月お金を入れたら、妹が身上になって倒れたから、もう会社が引き取りに来ちゃった、お金払えないから。

ある方にお願いしたら、その方が、ご近所からミシンを借りてきてくれた。だけどそっちも、「もう返してください」って言われたの。

だからもう今度は仕方がないから、もう家で、まつれるところを、仕付けをかけるところを全部やって、ミシンをかけるところだけ残して、自分の友達のところへかけに行く。そうして、洋服を作っては生活をするという、そういうことを妹がしてくれていた。

「なんとかなるかい?」って言ったら、「そうかあ」ということで、母は今修養科に行かれないから、修養科へ行かせていただいたと思って、三月(みつき)のちょうど。

 

(3)以上

 

 

※恐れ入りますが、お話の転載を一切禁止いたします(YouTube含む)

※本文中に、適切ではない言葉を使用している場合がございますが、お言葉等の意味合いが変わってしまうため、そのまま掲載をさせていただいております。何とぞご了承ください。