野を越え山を越えて名古屋への道(1)

 

 光陰は矢の如しと聞かせていただきますけれども、本当に天理教の天という字を、この愛町で聞かせていただきましてから、もう五十余年の年月(としつき)が経ったわけでございまして、今更のようにですね、年月(ねんげつ)の早さを感じるわけでございます。

それにいたしましても、この長い年月(としつき)を、折に触れ、時に触れ、初代の会長様から理を頂戴いたしまして、遠藤家は、できてもできなくっても、曲りなりにも、会長様の仰せに従って通らせていただいて、今日にまいりました。

ああそれでも、この五十余年の長きにわたって、初代の会長様に、ようお連れ通りいただけたもんだ。まあ今更のように、感慨深く、本当にありがたく、ありがたく、思わせていただいております。

また本日は、こうして神様のご守護を頂戴いたしまして、この長きにわたっての、いろいろと胸の中に残されているところのお話をさせていただくことができますということは、言うなれば、初代の会長様に受けましたご恩の万分の一をお返しできるのではないかと思いまして、これから何時間かかるか分かりませんけれども、思いつくことを一つ一つ、お話をさせていただきたいと思います。

 

私どもが、この愛町の教会の御門をくぐらせていただいた切っ掛けというのは、只今は故人となりましたけれども、愛はま布教所の初代の所長さん、石川はま先生のご一家と、この遠藤の一家というのは、沼津で家族ぐるみのお付き合いをいたしておりました。

そうこういたしておりますうちに、石川先生のご一家は、この愛知県の一宮に転居をされました。

それからも、時々季節の便りの中に、『今この名古屋に、関根豊松先生と申し上げる、そりゃあもう人間でいらっしゃるけれども、神様のようなお方がいらっしゃるから、あなたも一度いらっしゃいよ』というお手紙を時々頂戴いたしましたが、当時母は、たいへん熱心な仏立講の信者でございました。

ありがたいことだけど、まあまだご縁がありませんねというようなことで通っておりましたが、そうしておりますうちに、母は知らなかったのでございますけれども、慢性の盲腸炎を患っていたんですねえ。

そうして、当時は医学も貧困の時代でございましたから、その盲腸も疲れてまいりますと、盲腸の突起が膿んで、大腸の壁に癒着をしてしまう。そういう、大変困った病気でございました。

医者に診せましたところが、「これは、手術をしても助かるかどうか分からん。しなくっても同じことや」ということで。

同じことなら、何とかひとつ手術をしないでいきたいもんやということで、そのときに、石川先生から頂いたお手紙の数々を思い出しまして、お手紙を出させていただきましたら、『すぐにいらっしゃい』ということでした。

母は、お腹に六つもの氷袋を抱えて、名古屋にまいったわけでございます。そうして、石川先生を通して会長様にお目にかかり、はじめてお言葉を頂きました。

当時といたしましては、本当に沼津というたら、遠い遠い外国からでもお参りに来たように、皆さんに思われた時代でございました。

そこではじめてお目にかかりました会長様からおっしゃっていただきましたことは、私どもも、終生忘れることのできないお言葉でございました。

 

それは、「お前さんがここまで来るのに、それはもう何千という教会を通り越して、この愛町の教会にやって来た。これは、お前さんが来たと思うけどそうじゃないよ。神様が、前生の僕とお前さんたちの善因縁によって結ばれた親子関係をもって、ここに呼んでくださったんだよ。それじゃあ、遠いところ、お金を使って暇材をしてここへ来るなら、同じ天理教なら、沼津の中になんぼでも教会はある。お話を聞いて助かるものなら、その沼津の近くにある教会へお参りしたらよかろう、こう思うだろう。それは人間の考えであって、僕とお前さんたちとは、神様がご縁を結んでくださったんだから、いくら近くに教会があるといっても、因縁の無い教会に行っても、お前さんたちは助からないよ」とおっしゃられたんですねえ。

 

ですから、「助かっていくのには、難儀して、時間を費やして、お金を使って、何千という教会を通り越して、この愛町へ運ばせてもらわなければ助かっていかないよ」とおっしゃっていただきましたことも、今日、胸の中に刻み込まれております。

なるほど、そういうもんか。まったくこのお道というのは、人間考えでは計り知れないものがあるわけでございますね。

「そうして神様は、この愛町に、関根豊松という、私なら助けてあげるだろうとして呼んでくださった。お前さんたちも、助かりたいとしてこの教会の門をくぐって来たんだから、これからは、神様と僕の言うことを聞いて通るんだよ。しかしながら、私がどんなにお前さんたちを助けてあげたいというても、助かりたいは助かりたいけれど、会長さんの言うことは聞かれない、神様の言うことは行えないということであっては、いかな僕でも助けてあげることはできないんだよ」とおっしゃいました。

「だから」とおっしゃって(当時のその会長様のお姿が、目に浮かんでまいりますけどね)両手をこうやって広げてね、「僕のこの徳の傘の中に入って、ついてくるんだよ」とおっしゃった。「助けてもらえない人の言うことを聞いたって、助からない。僕と神様の言うことを、これから聞いて通るんだよ」と仰せくださいました。

母は、はじめてお目にかかりました会長様のお徳に、すっかりいわばまあほれ込んでしまいました。

もうその場から、ああこの会長様にすがって、遠藤家は道を通らせてもらおう、信仰をさせてもらおうという心になりました。

 

約5日程、お教会においていただいたのでございますけれども、5日程おいていただく間に、一つ氷袋を取り、二つ取りしてですね、帰らせていただくときには全部氷袋を外しまして、元気な身体にしていただいて、家に帰らせていただくことができました。

爾来(じらい)、私の母は出直しをいたしますまで、この病で苦しむということは全くございませんでした。

盲腸を切らないで持っているという者は、長道を歩くとつって歩けなくなる、重い物を持ったら破裂してしまうという危険性があるんですけど、そういうことも何もございませんでした。

こうして私どもは、母が一生懸命でございますから、知らず知らずの中に、母について信仰を家族揃ってさせていただくようになったわけでございます。

 

そうこういたしておりますうちに、石川はま先生は修養科に行かれまして、ちょうど同期の桜でいらしたのが、今の愛光分教会の会長さんになられた、大野佐七先生でございました。

まあ当時は、本当に紅顔の美少年という、勢い盛んな時代でございましたから、この大野先生を連れて、石川先生が、沼津に改めてこの布教に入ってくださいました。こうして、沼津にだんだんと道が広がっていったわけでございます。

ある時、その大野先生が、沼津の布教を終えて、教会にまいりまして、いろいろと会長様に布教先の家のことを申されておりましたら、私の家の話になったときには、それまでは黙ってお話を聞いておられた会長様が、「この遠藤家は、因縁の深い家だから、このままでいくと、つまりいい加減な信仰をしていると、一家は散り散りバラバラになって、みんな死に絶えてしまう因縁の家だよ。そうしてこの家は、繋ぎ違いをしている」とおっしゃったそうです。

 

私どもは、自分の家のことであって知りませんでした。繋ぎ違いがどんなことやら知らなかった。はじめて教えていただいて、ああそうかなあと思ってずうっと先祖を辿ってまいりますと、5代もですねえ、我が家は、女系家族の家柄でございました。

そして会長様は、「真になる者が(私は、早くして父を亡くしましたので、若いのに所帯主になった。まあ一家のか細い柱ではございましたけれども、柱でございました)この真になる者が、気違いか、胸(肺病)になるよ」とおっしゃられたそうです。

「そうしてね、この人間は断じて社会は通れないよ。まあしかしながら若い。なにぶんにも若いから、僕がこう言ったって、今すぐに、教会に入ってきて道一方ということはできなかろう。だからそんな無理は言わなくてもいいけれど、僕がこうと睨んだら、間違いはないよ」とおっしゃった。

「やがて縁をいただいて、子どもの二人、三人できてから、主人に困らせられて、持っていったものは全部質屋通い。それでも足りなくって、人さんのご家庭にご飯炊きをさせていただいて、その日その日を家族が糊していかなければならないような、やがて運命に落ちる。まあそれからでも、道をやっても遅くはないがねえ」とこんなふうに、大野先生に、会長様はおっしゃってくださったそうです。

 

それを聞かせていただきました母も私も、会長様のおっしゃることは、とにもかくにも千に一つの違いはない。絶対こうなると言ったらなると、もうそれは耳にタコのよるくらい聞かせていただいております。

ああそんな家であったか。さすれば、いずれ遅かれ早かれ、道一方に出させていただかなきゃならんことだが、私も、尾羽打ち枯らして、子どもの二人、三人連れて、通れなくなって教会に入り込みさせてもらうということは、とてもとても大変なこと。同じ道をやらせていただくなら。

 

(1)  以上

 

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