成る日成ることは成ってくる(後編)
だからというて、道を聞いたからすぐ陽気ぐらしができるというものじゃあございません。
それを初代の会長様が、橋に例えて、教えてくださいました。
向こうを見ると、朝日にきらきらと光って、金の一枚の延べ板の橋がかかっている。ああきれいな橋だなあと思って渡りかけますと、一枚の延べ板の橋でございますから、歩くたびに、ペコン、ペコンと揺れて、まことに足元が頼りない。ああこんなはずでなかったと思って、踵(きびす)を返して元へ戻ろうとすると、もうすでに橋桁が落ちてしまって戻ることができない。びっくり、びっくりして、やっとその金の延べ板の橋を渡り終えると、まだあるよって会長様おっしゃった。
粘土(ねばつち)の土。一歩行っては、ずぶずぶずぶ。どっこいしょーって言って、また片方歩くと、ずぶずぶずぶずぶ。そこをやっと通り抜けると、まだあるよと。粘土の山が待っている。岩の根につかまったり、木の根につかまったりして、やっと登りつめたところが、金銀財宝、宝の山やとおっしゃった。
こちらからこうやって見ると、山の向こうにきらきらと金銀財宝が光って見えますけど、じゃあこうやって手を伸ばして、ここから取れるかというと、取れるもんじゃあございません。そこへ行くのには、粘土の道を通って、粘土の山を通らんことには、そこに行くことができない。
道に例えて、会長様は教えてくださった。お道はこういうもんだよと。
「ああお道はけっこうですよ。良いお話をしますから聞いてください」ああなるほど、良いお話をしてくれる。そうするうちにだんだんと、「このお道は、難儀けっこう。苦労が財産」とおっしゃった。
「僕はねえ、難儀な事ができてくると、ああありがたいなと思った」
私たちは思えませんねえ。なんでやろうと。助かる、助かると言っているけれども、こんな苦労、なんでせんならんと思う。
会長様はそうじゃない。難儀が出てくると、ああありがたいなあ。苦労が出てくると、しめた!と思って手を打って喜んだとおっしゃる。「そうして通ったら、こんなにけっこうになってしまった」とおっしゃいました。
それじゃあ、けっこうになったから、勝手をなさるかというと、勝手をなさらないんです。
晩年には、会長様はお金のなかに埋(うず)まっていらっしゃいました。けれども、お金で勝手をなさいませんでした。勝手をなさらなかった。そうしてまた、暇は持て余すぐらいおありになりましたけれども、身体で勝手をなさいませんでした。
いつも私は申し上げるんですけれども、会長様は、どんな日でも、365日、必ず戸締りをなさいました。ご自分でなさいました。
あまり寒い日は、「会長様、私が何度も見せていただきましたから、大丈夫でございますから、今日はこのままお休みください」って申し上げたら、会長様は、合わせ上手の方でいらっしゃいますから、「そうかえ。それじゃあ、今日は休ませてもらおうかね」と言ってお休みになられます。
夜中になってふっと目が覚めると、こっちでぽかっと灯りが、こっちでぽかっと、ああ会長様がトイレにお出かけになったんだなあと思う。懐中電灯の灯りですから。
飛んでまいりますと、会長様はトイレにお入りになったあと、お一人で、私が大丈夫でございますと申し上げたことに対しては、それに合わせてくださって、じゃあ休ませてもらおうかねってお休みになりましたけど、夜中にトイレに行かれたあと、ご自分でこう見て歩かれた。
そのときにおっしゃったお言葉は、今も私は、はっきり覚えております。
なんとおっしゃったかというと、「ああ今日はここへ入ろうと思った泥棒が、鍵が詰まってどこも入れなかったら、仕方がないなあと思って諦めて、入らないで、泥棒に入らないで帰っていくだろう。けれども、1つ鍵が開いていたために、そこから入って、物を盗んだり、お金を盗んだりして、泥棒をしていったら、その泥棒に因縁を積ませることになるだろう。入れるように鍵を忘れたということは、泥棒も因縁を積むけど、こちらも、泥棒に入られたという因縁を積む。相手に申し訳ないからね」
私たちはそうじゃない。ああ泥棒に入られて、物を持っていかれたり、お金を持っていかれたら、えらいこっちゃっていう、そういう思いですね。そういう思いで鍵を、まあたまにはかけますよ。
ところが会長様は、泥棒に入って、入られて、泥棒をしたという因縁を、相手に積ませて気の毒だからねえとおっしゃるの。思うところが、我々とまったく違うんです。
そうおっしゃって、365日、会長様は戸締りをなさいました。見て歩かれました。
私も、6年ほどおそばにおいていただいて、神殿に出させていただくようになりましたけれども、初代会長様は、親奥様に伺ってみるところ、お出直しになられるまで、この戸締りをご自分でなさるということは、続けられたということを聞かせていただいております。
あるとき私は、ある信者さんから、こういうことを耳にいたしました。
「先生、僕は、初代会長様のお話を伺って、このお道に入れていただくのが1日遅かったら、集団強盗で、泥棒に、強盗に入るところでした」って言うの。
「1日早く聞かせていただいたということで、そういう因縁を積まずにすんで、いま考えてみると、本当に助かりました」と、こういうことを聞かせていただいたことがございます。
まあ集団強盗という言葉は、戦後、年限が経ちましたから、もうお分かりにならない方が多いでしょうけれども、この大東亜戦争が終わったあと、日本は敗戦をいたしました。
日本国中、ないない尽くし。お金はない、食べるものはない、着るものはない。若い人たちは、今どころじゃあございません、働きたくっても働くところがなかったの。
そういう時代ですから、まあ悪いこととは知りつつも、そうやって、徒党を組んで、集団で、物のある家、お金のありそうな家に入って、強盗をしたという。
当時は、戦後間もないことですから、警察だって、あってないようなもんでございました。届け出たって、相手にされなかった。
私の母である初代の所長が、ある方におたすけをさせていただきました。
信者の時代でございますけれども、聞いた方がたいへん喜ばれて、「こんな素晴らしいお話を、自分たちだけ聞いていちゃあもったいない」ということで、ご夫婦揃って、奥さんのお在所である、東京がお在所でしたねえ、実家でしたけれど、「今日は、良い話を持っていくから、みんな集まっていてくれ」ご両親から、兄弟から、みんな集まっているところで、私の母から聞いたお話を、まあつまり、おたすけをしてくださった。
ああなるほど、天理教でもちょっと違うなあ。この天理教なら、聞かせていただいていいなあということで、皆さんが、その日、お道を聞かせていただこう、お道に入れていただくということを定められた。
ところがその息子さんは、そういうことで、明日はどこそこへ何時に集まって、どこそこへ泥棒に入るという約束ができている。家族は誰も知らない。
けど、そのお話を聞いて、ああやっぱりいけないことはいけない。たとえ断って、自分が殺されるようなことがあっても仕方がない。いけないことはいけないからと言って、お断りをいたしました。
まあそれ以来、誘われることはなかったわけですねえ。私は本当に助かりましたというお話を聞かせていただきました。
このお話を私は聞かせていただいたときに、なるほどなあ、初代の会長様は、お教会にお座りいただいてどこにも動かれませんけれども、お座りになったまんま、どんな遠方でも、「神様、会長様―!」とお願いする者は、ちゃあんと助けてくださった。
会長様も、その信者の顔は知りません。信者さんも、会長様のお顔まだ分からない。今日、聞いたんですから。でも、ちゃあんとそうやって助かって、知らないなかに助けられていった。
それは、そうして初代の会長様が、守って通られた。これが天理教なんですねえ。
おたすけをさせていただくことも、ひのきしんをさせていただくことも、みんな天理教でございますけれども、初代の会長様は、朝目が覚めて、休ませていただくなかに、常に、神様とお話申し上げてお通りくださった。
「お前さんたちは、違えば僕がついている。ああそれはいけないよ、そんなことをしていちゃあ今に通れなくなるよと教えることができる。皆助かりたかったら、教えられたことを守って通る。けれども僕は、誰も教えてくれる人がない。時として不安に思って、(そばにおられる奥様に)母さん、母さん、僕はこれで大丈夫かえ?違っていないかい?と尋ねることがある」
よしんば違っていたとしても、奥様は、ああそれはいけません、こうされた方がいいでしょうなんてことを、おっしゃるお方ではございませんでしたねえ。ああけっこうでございますというお返事しか返ってこない。
「だから僕は、自分で自分がこわい。断じて自分を許さない。朝目が覚めて、夜休ませていただくなかに、常にいちいち口に出して言うたら人がおかしく思う。だから、心の中で神様とお話申し上げて、違っていることは断じてしない」
だから、俗に言う、このお道の信仰は里の仙人と、里の仙人とこう言われます。
他の宗教のように、断食をしたり、寒中に滝に打たれて修行をしたりという、そういう荒行はいたしませんけれども、座っていたら、何を考えていらっしゃるんだろうなあ、何を思っていらっしゃるのか分からない。常に神様とお話を申し上げては、正しく真実に通らせてもらっている。
「僕はこうして通らせてもらっているから、助けてくださあ―いという人があると、どんな遠方でも、この神様、教祖(おやさま)の理は、僕を通して先方に流れていって、先方が助かっていく。中に仲立ちをする者、親神様と教祖(おやさま)との仲立ちをする者が大事だよ」
正しく真実に通らせてもらっていなかったら、この理は流れていかないわけです。そうして、愛町の信者さんは、皆助けられていったわけです。
まあそういうことで、私は、これからどのような事があるにいたしましても、初代の会長様に教えていただいたことは変わりません。どんなに、どのような時代が来ても変わらない。教えていただいたとおりに通らせてもらえば、それで、教祖(おやさま)、初代会長様の理が頂けるのでございますから、こんなけっこうな教えはないと思わせていただくのでございます。
まあ皆さん方も、そんなところにお心を置かれまして、形から入りますけれども、年限が経ってまいりますと、心のおさめ方、心の運び方が大切になってくるのでございます。
だからというて、形はいい加減で良いというものではございません。形も、人さんから、世界の方からご覧いただいて、ああなるほどな、ああなるほど天理教は素晴らしいと、見ていただけるような行いをしていかないと。
じゃあ心はそっぽ向いていたんじゃあ、助かってまいりません。心も形に伴って、どこに合わせていくかというと、天理天則に合わせていくわけでございます。それを、私どもは、初代会長様に、長数年にわたって教えていただいた。
誠にありがたいことだと思いますが、ただありがたい、ありがたいと言っていたんでは、なんにもなりません。
この初代の会長様に教えていただいた、どんな小さいお話でも、皆さんに聞いていただいて、皆さんも、なるほどと思っていただいて、助かっていただいたら、初代会長様が、きっとお喜びくださると思うのでございます。
今日は、これで失礼させていただきます。
(後編)以上
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