成る日成ることは成ってくる(前編)
私が、初代の会長様のおそばにおいていただいて、御用をさせていただいている頃のことでございました。
まあ会長様は、寒いときは、おこた(こたつ)もございましたし、また、カイロでおみ足を温めなさることもございましたけれども、夏もおみ足が冷えていらっしゃいました。
けれども夏は、おこたなど使いましては、体のほうが熱くなっていけません。そういうときは、私ども奥に仕えさせていただく者が、なんにしても若いときのことでございますから手が温かいわけですねえ。私どものこの手で、初代会長様のおみ足を温めさせていただいたことが、しばしばございました。
その日も、しばらくウトウトとなさっていたように思います。
私は、まだお休みの様子かなと思いまして、そおっと音を立てないようにお部屋を開けさせていただきましたら、まあそんなに静かに開けさせていただいても、初代の会長様はふっとお目覚めになられました。
「会長様、おみ足を温めさせていただきましょうか?」とお伺いいたしますと、「そうかい。それでは、あっためてもらおうかねえ」とおっしゃって、お廊下にお出になられまして、お廊下にはお休みになりやすい椅子が置いてございました。
その椅子にお休みをいただいて、私はそばで、片方ずつ会長様のおみ足を両手にこう包むようにしてねえ、温めさせていただきました。
会長様のおみ足というのは、我々の手よりもツルツルとしてきれいでございましたねえ。
しばらく温めさせていただくと、「ありがとう。温かくなったよ。ああもういいよ」とおっしゃってくださった。
そのあとに会長様が、「こうして、僕の足を今お前さんがあっためてくれているけれども、その僕の足をあっためてくれたお前さんの手を、今にねえ、東から、西から、南から、北からと、あちらから、こちらからと、助けてくれ、助けてくれと言うて、助けを求めてくる者があるよ」と、おっしゃってくださいました。
ありがとうございますと、そのお言葉をお受けをさせていただきましたけれども、そんな日が本当に、私のような者にもくるんだろうかなあ。そんな日がくると、嬉しいことだなあと思うて、会長様のお言葉を頂戴して、年限が経ちました。
ただ今、私は、90歳を数えるようになりましたけど、この頃、会長様のお話をさせていただくと、お聞きになられた方々が、「先生、先生のその手で、私の手を握ってくださいませんか」と、こうおっしゃるんですねえ。
私は、なんだか気恥ずかしいような気がして、「私でよろしいんですか?」と申しますと、「会長様のお話を伺っていると、なんだか先生が、会長様のように思えてなりません。どうかひとつ握ってください」とおっしゃるんですねえ。
そうですかって、それで私が握ってさしあげる。すると、その方が大変喜んでくださる。なんだかホッとしましたとか、元気が出ましたとか。
「私じゃないんですよ。初代の会長様が、この私の手を通して握ってくださったと思いますよ。これから、長い道中のなかには、いろんなことが起きてくると思います。お道の信仰をさせていただいたからといって、何もかも助かって、ウハハ、ウハハと、面白おかしく通れるというものじゃあございません。一つ一つ、家柄の因縁、また自分の前生因縁を消していくのでございますから、時には、どうしてこんな事になったんだろう、お道の信仰をしていても、助かっていかないのかしらんという不安も出てくると思いますけれども、大丈夫ですよ。教祖(おやさま)と、初代の会長様が、どんななかも両手を引いて連れて通ってくださるんですから、大丈夫ですよ。安心してお通りください」
すると、もう本当に皆さんが喜んでくださる。その喜ぶ姿を見せていただくと、何か私も、なんだか胸いっぱいになって、熱いものが込み上げてまいりますねえ。
そうすると、昔々、初代の会長様から、「僕の足をあっためてくれたお前さんの手を、今に、東から、西から、南から、北からと、助けてくれ、助けてくれと言うて、頼ってくる者ができてくるよ」何気なくおっしゃったその会長様のお言葉を、私は時折思い出しつつ、ぼつぼつと、こつこつと、通れても通れなくっても通る努力をさせていただいて、今日までまいりました。
早いものでございまして、今年は63年を数えます。
お教会に入り込みをさせていただいたのが、ちょうどこの夏、昭和22年の7月13日に私は入り込みをさせていただきましたけれども、それからあっという間に過ぎ去った。
通る道中はいかにも長く思いましたが、通り過ぎて振り返ってみると、本当に早いものでございますねえ。自分でもびっくりしてしまう。
まだこれからも、命をおいていただく限り、いついつまでもお連れ通りいただいて、初代の会長様に聞かせていただいたお話、また教えていただいたことを、皆さんに聞いていただいて、通る覚悟でございます。
初代の会長様が、おっしゃっていただいたことがある。
「ここに実現をしたということは、どういうことであろうかね」と。
初代の会長様は、「このお道の信仰は、まったく自分を捨てきることです。自分を捨てて通る。人間考え、人間思案を捨てて、自分を捨てきって、道は通らせてもらう。成ってくることを神様の思し召しとして、受けられても、受けられなくっても、受ける努力をさせていただくということは、つまりは、低い心、また柔らかい心、また素直な心になって、神様の思し召しを聞かせていただいて通る努力をさせていただくことが、このお道の信仰である。僕もそうして、長数年にわたって通らせてもらって、確かに間違いがないということを、体験をさせていただいたから、僕は皆さんにお話をさせてもらっているんだよ」とおっしゃっていただいたこともございます。
「やはりそうして通らせていただかないことには、このお道の信仰ということは分からない。僕は、分かったから通ってみた。通って間違いのない道だから、皆さんにお話をさせてもらっているんだよ」と、このようにいつもお話を聞かせていただきました。
そうして、私どもがねじり鉢巻きこそいたしませんけれども、たすき掛けで、尻っぱしょりして、てんつく、てんつく、走って歩いて、いろいろの御用をさせていただいた時代に、人間でございますから、ふっとこれでいいんだろうか、こんなことをして通って本当に助かるんだろうかと、思うときが時折ございました。
すると、ちゃんとそれが初代の会長様に、心の底、自分と神様しか分からない、自分のこの心の使い間違いというものは会長様にうつるんですね。
すると、会長様が、「お前さんね、今を喜ばせていただかなきゃいけないよ。今喜べない者が、先へ行って喜ぶことができるはずがないじゃないか。今を喜ばせてもらうと、先へ行って、年限が経って、忘れた頃に、ああこんなけっこうな事がくると思わなかった。夢じゃないかしらんと思うような、けっこうがくるんだよ」
年限が経って忘れた頃にと、仰せくださいました。
ああそういうもんか。会長様がおっしゃるんだから間違いのないことであるが、ああそういうもんかなあと、自分の心の向きを変えては、お連れ通りいただいた今日でございますけれども、今日になって振り返ってみるときに、初代の会長様は、1つも嘘をおっしゃいません。
成るということは、必ず成る日に成ってまいります。まあこれが天理というものでございましょうけれども、焦ってみたところでどうにもならない。自分の思い通りいくはずがございません。
いかなかったら、いっそう自分を外において、神様の仰せに添って通らせていただくほうが、いかにも回り道のようでございますけれども早道で、いちばんのこれが直線コースだということも、今日になって、ようく分からせていただいたことでございます。
私どもが良いと思うことは、すでに因縁だと会長様おっしゃった。
良いことを考えるんだけれども、そこに家柄の因縁とか、自分の前生因縁がうつってくるから、どんなに良いことを人間で考えても、悪いことに変わっていく。
そこで、このお道を聞かせていただいたら、良いことが良いことで通るようになるのには、まずもって、この因縁を消させていただく道を通らせてもらって、また徳を積む道を通らせてもらうことより他にないということに気がつくわけですねえ。
いかにお金があって、お金のなかに埋(うず)まっていても、お金が役をしない。どんな高い暮らしをしておっても、因縁で落ちる人もあります。
どんな素晴らしい学問を持っていても、因縁で使えなくなる人もある。
だけど、因縁というても、つかんで、つかみどころのないものでございます。
それを消していこうというのですから、生半可なことでは通れないわけですけれども、だからといって、通れんということはない。
なぜかというと、私たちは、教祖(おやさま)と初代会長様が、両手を引いて、どんななかもお連れ通りくださっている。お道を聞かせていただきますという、この一生懸命の心に免じてお連れ通りくださっている。
自分で通っていると思いますが、そうじゃございませんね。神様に連れて通っていただいている。
信仰も自分でしているんじゃない。神様がさせてくださっている。なんのために?
我々を助けたい。陽気ぐらしをさせてやりたいために、お連れ通りくださった。
だからというて、道を聞いたからすぐ陽気ぐらしができるというものじゃあございません。
(前編)以上
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