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猛火の中を助けられて(前編)

 

まもなく戦争が終結をいたしましてから六十二回目の終戦記念日がまいります。
先日、読売新聞の編集手帳の欄で、山本康夫さんの「皮膚のない裸群」という詩が紹介されていました。

「爆風でばらばらに壊れた家の中で被爆した十三歳の我が子を看取った。臨終の間際に少年は父親に尋ねたという。「お浄土には羊羹(ようかん)があるの?‥‥‥戦争はないね」と。」
短い言葉でしたが、涙がとめどなく頬をつたって流れてまいりました。それは、私も戦争の中に身を置き、米軍の戦闘機グラマンによって空襲を受け、焼夷弾で家をなくした者だからです。


ある日のこと、私は毎日のようにおたすけにきてくださる大野先生にお尋ねをしました。「愛町の信仰をさせていただいておったら、よそさんは焼けても、私の家は焼けませんか」と。すると先生はすかさず、「大丈夫ですよ。絶対に焼けませんよ」と顔色も変えないで言われました。そうか、よそさんが焼けても私の家が焼けないというのであれば、こんな有り難いことはない。これからも愛町の信仰をさせていただけばいいのだなと、今にして思いますと、誠にあさはかな恥ずかしい心得でございましたが、まだ当時はお道が分かっておりませんでしたので致し方のないことでございます。


そうした中、戦争は日増しに激しくなってまいりまして、もはや日本軍の敗戦の色は、国民に隠しようもないくらいに悪い事態となってまいりました。
昭和二十年三月十日のこと、この日は米軍の戦闘機が編隊を組んで、それはもう沼津の空一面を真っ黒に染めるかのようでした。おそらく浜松の先端にある潮岬の辺りから侵入してきたであろうグラマンが、私どもの頭上を整然と編隊を組んで通り過ぎ、富士山を目標に進んでゆきました。悲しいことですが、日本軍にはこれを迎え撃つ飛行機もすでになく、ただ三島にありました野戦銃砲隊の打ち上げた高空砲が空の途中で炸裂したのを、二、三回見ただけでした。日本の空はもう米軍の蹂躙のもとに晒されていたのでございます。

 

一体この編隊はどこへ向かうのだろう‥‥今日は人の身、明日は我が身という言葉を思い出しておりました。やがて私どもはラジオのニュースで、この日東京が未曾有の大空襲を受け、多大なる被害を受けたということを聞くことになるのでございます。


昭和二十年の四月一日には、米軍がとうとう沖縄に上陸をいたしました。それから次々と日本の主要都市が焼夷弾を投下されて、焼土と化してゆきました。そして遂に、軍部は本土決戦を決意し、私たち国民は、一億玉砕、最後の一人になるまで戦い抜くということを嫌がおうにも定めさせられ、それができない者は非国民の謗りを受けることになりました。このようにまったく前線銃後の区別がなくなって、次第に私どもは戦闘に巻き込まれていきました。


六月に入りまして、静岡県では静岡市が空襲によって焼土と化し、また間をおかずして、清水市が焼野原となりました。

米軍は焼夷弾を投下する前に必ず空からビラを撒いていきました。そのビラには日本語で「沼津の皆さん、近いうちにうかがいます。覚悟はいいですか。お次は皆さんの番ですよ」と、そんな意味の言葉が書いてありました。つまりアメリカは、銃後の国民に反戦の心をかきたたせて、早く戦争を終わらせようとしていたんですね。ビラを見た毎日が不安でした。「今日はグラマン機がこなかった。明日はくるに違いない」という、本当に誰もかれも人間の暮らしではありませんでした。


昭和二十年の七月十六日の早朝、突然、ご近所に住んでいた陸軍士官の息子さんがたずねてきて、「遠藤さん、今日は空襲があると思うから、準備をしておくといいでしょう。僕はこれから御用邸へ警備にまいります」とあわただしく言葉を残して出てゆかれました。
これは、親神様と初代会長様が、この方の口を通して、今日起こる事を前以って教えてくださったんだと思います。
私たちは、身の回りの品々は防空濠の中に納めさせていただき、遠藤家にとって最も大切な宝物である会長様からいただいたおさとしのお手紙は、母が晒布に入れて、お腹にしっかり巻かせていただきました。
こうして私どもは待つことにしました。それはもう終日緊張し、気持ちが張り詰めておりました。
ようやく辺りが暗くなりかけて、もうこないだろうとホッとした時です。突如、警戒警報のサイレンが鳴り響き渡り、矢継ぎ早に空襲警報が発令されました。しかし、すぐさま「ただいま沼津上空に敵の米軍機が襲来いたしましたが、まもなく東京湾の上空に脱去いたしました」と放送が入りまして、ホッとしました。
そして母や妹たちを一先ず休ませて、私は見張り番をしておりました。すると、いきなりけたたましい空襲警報が発令され、同時に表の方で警防団の方々の「きたぞ!きたぞ!きたぞ!」という喚き立てる大声が聞こえてまいりました。
それっ!ということで母や妹たちを起こし、防空壕を改めて確認して表へ出ました。本来ならば、灯火官制下におかれているため、全ての明かりは消され、真の闇が広がっているはずでしたが、その時は、火の玉のような照明弾が空一面をふわりふわりと(本当ですよ)風船のように浮き、辺り一面は真昼のような明るさでした。
「いよいよきたな、さあどこへ待避しよう、そうだ!」と一先ず近くの狩野川の堤防へと走りました。しかし、すでに狩野川は火の川になって燃えていました。「ここは駄目。では」と頭を巡らせて、香貫山の方へ目をやりますと、香貫山も火をつけたちょうちんを並べたように火の山でした。
「どこへ行けばいいのだろう」、私は大きな声を出して「神様会長様お願いいたします」と申し上げますと、「八間道路へ」と頭に浮かんでまいりました。


家の裏手にある八間道路へ出た時、あまりの恐ろしさに体がブルブル震えてまいりました。
いつも広く感じられたその道路(静浦にある御用邸に天皇家の皆様がお見えになるため、駅から続くこの道路が作られたのです)が、人であふれかえっていました。大きな荷物を背中にしょって西へ向かってゆく人、乳母車いっぱいに荷物を載せて東へ走る人、また大八車に山のような荷物を乗せて引いてゆく人、その間をぬって、這うように歩いてゆく人、その誰もかれもが、わあわあわあと、言葉にはならない叫び声をあげて、右往左往しておりました。
人の姿を見つけると米軍機は急降下してきて、機内から容赦なく機銃掃射を浴びせてきました。目の前でバタバタと人が倒れて、この世のものとは思えない、まさに地獄の有様を目の当たりにしました。
「神様会長様お願いをいたします。命のないものなら、ここで死んでも致し方ありません。家が火に焼ける因縁なら焼けても仕方ありません。けれども死ぬも生きるも、家族は最後まで一緒で、断じて離ればなれにしないでください」と、お願いをいたしました。本当にちょっとでも手を離したら、雑踏の中に飲み込まれて分からなくなりそうでした。
人に押され押され、もまれにもまれて、あてもなく歩きました。それはずいぶんと長い時間であったように思いました。

そして、私ども親子は、ある地点まで来て、立ち止まりました。私どもはここで神様の御守護を見せていただくことになるのです。


立ち止まった場所に小さい石の橋がかかっており、その下には細い川が流れておりました。そこで見張り番をしておられたと思われる一人の男性が、私どもに声をかけてくださいました。「あんた方、そこで何をボヤボヤしているんだ!グラマンに見つけられたら撃たれて死んでしまうよ!さあ早くここへ入りなさい!」と言ってくださり、まごまごしている私達を引きずりおろすようにして、石橋の下に入れてくださいました。

本当にありがたいことで、ここに入れていただいたことによって、後々ない命を助けていただくことなるのです。

その中には、もう七、八人の方がドブ水にどっぷりと腰まで浸かって待避をしていました。そこに入れていただいて、やっと人間の心を取り戻したような心境になるとともに、今まで耳に入らなかった焼夷弾の炸裂する爆発音がしきりと耳に入ってまいりまして、そのたびに、周りの方々は、ナンマイダとか、南無妙法蓮華経とか、それぞれが信仰する神仏の名を唱えていました。

突如、母が「皆さん、どうか私のいうことを聞いてください。私は通り吉田に住んでいる遠藤ハルと申します。私は名古屋にある愛町分教会の信者でございます。会長様は教会から遠く海山千里離れているところの者でも、信仰のない人でも、神名を唱えれば必ず助けてくださいます。大丈夫ですよ。皆さんどうか私のするとおりに一緒にお祈りをしてください」と力強い声で一気に申しますと、声高らかに「あしきはらいのつとめ」を始めました。やがて私ども娘たちはもちろん、橋の下で生死をともにする十数名が声を合わせて「あしきをはろうて、たすけたまえ、天理王之命」とお祈りを始めました。今まではてんでばらばらにそれぞれの信仰する神仏の名を唱えていた方々も、いつの間にか皆一つの心になって、声を合わせていました。そこには教派の違いもなく、信仰のあるなしも関係なく、ただひたすらに神様に祈る尊い姿があるだけでした。

すると不思議なことが起きたのです。両岸の家々から火柱が立って、猛烈な勢いの炎がそれらの家を焼き付くし、その火の粉混じりの熱風が橋の下まで拭いてまいりまして、まるで釜の中で茹でられるように、皮膚はひくひくと痛み出して、髪の毛が焦げ始めていました。このままでは皆焼け死んでしまう、しかし、ここから外へ出たら、もっと恐ろしいことが待っているだろうと、身体きわまった時です。両岸の燃え盛る炎と北の方から迫ってきた大きな火の渦巻きが一つになって燃えておりましたのに、急に水をかけたように勢いが衰え、鎮まってまいりました。と同時に、風の向きが変わりまして、南からどんどん燃えてきていた火の手は、橋の近くでくるりと方向へ変え、反対の方角に流れてゆくのが目に映りました。

こうして神様の尊い御守護のお姿を目の当たりに見せていただいたのでございます。
「神様は自分になる理を、見る因縁、聞く因縁、またおたすけをさせていただく因縁でお見せくださる」と聞かせていただきますが、実はその時、同じ川の上流に本家の家族が待避をしていたそうですが、妹と同じ年のいとこがお腹に焼夷弾の直撃を受けて即死をしたと、後から聞かせていただいたのです。

やがて東の空からいつもと変わらぬ太陽が昇り始めました。私どもははじめて生き返ったような気持ちになりまして、土手に上がりました。石橋を見ると、十数発の焼夷弾が不発のまま突き刺さっておりました。私どもは改めて命をいただいたことを喜び合い、神様の御守護に涙しました。


こうして、生死をともにした方々と再会を約して、お互い西に東にと、袂を分かったのでございます。
私ども親子は心を取り直して、我が家へ帰ろうとしたのですが、何もかも灰になって、見渡す限り焼野原となり、まったく方角が分からないのです。ひとまず八間道路へたどり着きましたが、そこには思いもかけない恐ろしい光景が目に入ってきました。焼け死んだ人達が真っ黒に焦げて、体が倍くらいに膨らんで、見るも無残な姿で道路いっぱいに横たわっていたのです。それをまたがなければ通れないのです。「ごめんなさいね。ごめんなさいね」と手を合わせながらやっと通ることができ、ようやく我が家があったと思しき場所にたどり着きましたが、家はすっかり焼けて、跡形もありませんでした。古い民家でしたから、太い梁がところどころでぶすぶすとまだ燃えていて、小さい防空壕の上や横に倒れていました。


ここでちょっとお話を変えさせていただきます。
初めてお教会に参拝をさせていただきました時に、生涯の守りとして会長様から尊いお言葉をいただきました。
会長様が仰せられたましたことには「お前さんたちは、遠く沼津からここへお参りにきてくれた。(今から思うとおかしな話ですが、その頃は沼津から来たと申し上げると、ずいぶん遠いところから見えましたねと、まるで外国からでもきたかのように皆さんに言われたものでございました)ここまで来るのにはそれはもう何千という教会を通り越して、この教会へやってきた。それはお前さんたちが自分で来たように思うけれども、自分で来たのではないよ。前生の善因縁によって、神様がここが一番良かろうとして連れてきてくださったのだよ。神様が前生の善因縁によって僕とお前さんたちを結んでくださったのだよ。だから、名古屋まではとても大変だから、同じ天理教ならどこでも良かろうと近くの教会に毎日運んでも、それは因縁になっても徳にならないよ。お前さんたちはお金を使って、体を使って、難儀をしてでもこの愛町分教会へ運ばないとたすかってゆかないよ。そうして、このお道の信仰は天理教の“天”という字を聞かせていただいたら命のある限りという信仰だよ。これから長い道中、神様を重んじて、僕の言うた事を忘れないように固く守って通らせていただいたなら、先へ行って忘れた頃に、どうしてこんなに結構になったのだろうという夢のような日が必ず間違いなく来るよ」とたすかってゆく道を教えてくださいました。このお言葉は決して忘れません。

お話を元に戻しますが、私はまず倒れて横になっていた梁を取り除いて、防空壕を恐る恐る開けてみました。実はこの防空壕は、土間に畳一帖ほどの穴を掘っていただき、その上に畳をのせ、トタン板をのせ、最後に砂をかけるという子供騙しのような防空壕で、たった七円で完成したものでした。それが、さぞかし凄まじかったであろう猛火の中を焼けずに御守護をいただいたのでございます。お向かいの区長さんのお宅は資産家ですから、当時のお金で七百円もかけて、立派な防空壕を作られ、一ヶ月くらい篭城しても大丈夫というくらいたくさんの食料を蓄えられていたそうですが、どうしたことか、小さな穴から火が入りまして、全焼してしまいました。こうしてまた、焼ける因縁を人さんの話を聞くことによって、通らせていただくことができたのです。
初代会長様から我が家の因縁について教えていただいたことがございます。「お前さんの家はを立てていないから、このままゆくとになる者が気狂いになるか、胸(肺病)がでるよ。そして、やがて一家は散り散りばらばらになって、皆死に絶えてしまう因縁の家だよ。嘘だと思ったら、先祖を調べてごらん」と言われました。母はさっそく祖母に尋ねてみたそうです。祖母はびっくりして、その方はえらい方や、おっしゃった通りだと先祖の通った道を話してくれたそうです。このことについてはまた改めてお話をいたしましょう。
「神様は因縁の深いお前さんたちをなんとかして助けてあげたいとして、この教会なら、この会長なら助けてくださるだろうと思われて、僕のところへ連れてきてくださった。またお前さんたちも助かりたいとしてここへやってきた。としたら、これからしっかり腹を据えて、僕の話を聞いて通らせてもらうのだよ。しかしながら、助かりたいは助かりたいが、どうも神様の言われる事は難しすぎて通りにくい、会長様の言われる事は聞かれないということになっては、いかな僕でも助けてあげることができない。助けられないで私が苦労するから、私が助けてあげたいと思う時に、その私の思いがそのまんまそっちに通るような信仰は、僕ではないよ、助けてもらいたいと思うそちらがさせてもらうのだよ。ではその信仰はいつするのか、何か起きてからでは間に合わないよ。何でもない時、むしろ結構な時にさせていただくのだよ」と教えてくださいました。


悪夢のような一夜が明けましたが、まだまだ夢の続きを見ているような気持ちでございました。その時、国防服に身をかためた一人の男の方が、こちらを向いて歩いてまいりました。その方は大野先生でした。
着くなり先生は「会長様からお電話をいただきました。「沼津が焼けた。鳥倉さんのところは男がいるからいいが、遠藤の家は女ばかりでさぞかし難儀をしていることだろう。すぐにおたすけにいってやっておくれ」とのことで、とるものもとりあえずまいりました」とおっしゃいました。
先生は、当時、教会半分、家半分というおつとめをしておられまして、早速焼津駅から汽車に乗ってくださったのですが、途中何回も警戒警報や空襲警報にあい、その度に汽車から降りて木の陰に待避するということを繰り返し、ここまでたどり着きましたと、その時おっしゃっておられました。
それから先生に手伝っていただきまして、焼トタンを集め、一先ず雨露をしのぐ仮の屋根を作りまして、その防空壕の中で、先生から尊い会長様のお言葉をいただくことになりました。神様のお話をうかがう最中でも、召集令状の赤紙をいただかれた兵隊さんが、隣組の方の万歳万歳の声に見送られてゆく姿は何とも悲しいことであったことを覚えています。

先生はまずこうおっしゃいました。「遠藤さん、これからお話することは、誠に重要なことです。どうか私がお話すると思わないで、すべて会長様のお言葉として受けていただきたい」とはっきりと言われました。そして、「遠藤さん、昨日までの遠藤を捨てて、今日からは天理教の遠藤になってください」と言われたのでございます。

母は「先生、昨日までの遠藤を捨てて、今日から天理教の遠藤になるということはどういうふうに通ればいいのでしょうか。もっと具体的にお話をしてください」とお願いをいたしました。ようやく防空壕の中にも夕闇が迫り、十七日の日もまさに暮れようとしておりました。


これから先のお話は大変長くなりますので、八月の二十五、六日頃にホームページにアップいたします。
私は毎月皆様にお目にかかることを楽しみにしております。

 

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