母の身上から道一条の心が定まる(前編)
「サダメタコトヲジッコウセイ アトフミ」
今回のお話は、その前年のことから始まります。
その日は泊めていただき、翌日帰らせていただこうと思って神殿に座っておりますと、そこへ二代の会長様(その当時は若先生と申し上げておりました)がお見えになり、「初子さん、もう帰るのかい?あのね、来年の二月から、僕の弟の政雄さんが修養科へ行くことになったから、ちょうどいい、お前さんも一緒に修養科に行かせてもらいなさい」とお言葉をかけてくださいました。 私は突然のことで驚きましたが、フッと「お教会で言われたことはどんなことも重く受け止めて、何でも『ハイ、ありがとうございます』と受けるものですよ。それがお道の信仰をさせていただいているということであり、会長様を尊敬して親神様を重んじて通っているということですよ」という先生の言葉が胸の中に浮かんでまいりましたから、「ハイ、ありがとうございます。修養科に行かせていただきます」と間髪を入れず、はっきりとお返事を申し上げることができました。 その時は修養科へ行かせていただけるだけの費用があるとかないとかまったく計算をいたしておりませんでしたが、お受けのできたことのさわやかな喜びのほうが大きかったと思います。
修養科へ行かせていただく時は、皆々命のない時と教えていただいています。なんでも命あっての物種であり、肝心の命が逝ってしまったら元も子もない。命さえあったらまた働くこともできよう、きれいな着物を着れる時もくるであろう。当時はまだ戦後の物のない時でしたから、古着屋に持って行けば良い値段で売れる時代でした。こうして、しつけをかけたままの母の真心のこもった真新しい晴れ着は、お金に変えられ、修養科に掛かる費用を十分とはいかないまでも、不思議と何とかとんとんという御守護をいただいたのです。
「ああ修養科から帰ってきたからそう言うてくださるのかな」と思っておりましたところ、ご婦人の先生から、「あなたのお母さんが、初子は神様の子供としてお教会に差し上げます、お供えさせていただきますと初代会長様に申し上げて、会長様もお受け取りくださっておるのですよ」という【入り込みの事実】を聞かせていただいた時は、本当にびっくりいたしました。
しかしながら、「修養科に入れていただく時といい、卒業して帰ってきた時といい、これから自分の行く道というのは、自分ではなく理の親の言葉や肉親の親の言葉に従うのが私の定められた道だろうか」とも、その時思いました。 世の中にはお金にだまされる人もある、またお酒にだまされる人もある。そして、勝負事にだまされる人もある。もしも私にだまされる因縁があるとしたら、いっそ清水の舞台から飛び降りたつもりで神様にだまされてみようか。しかし神様は会長様はだますようなことはなさいますまい。もともと私はお道を嫌いではありませんでしたが、お道は社会と裏腹と聞かせていただいておりましたので、果たして私は自分の好きなものを全部神様にお供えをさせていただいて、何も思わん心になって、自分を捨てて、親神様、会長様のおっしゃるところにそった信仰がしてゆけるだろうか。己の栄達出世を求めず、自らの因縁なら一代真っ黒けになって鍋釜の底を磨いて通らせていただこうという覚悟の信仰ができるであろうか。誰に聞いても大丈夫ですよと言ってくれる人はいない。ではどうすればいいかと、表面的には何もないような顔をして教会で寝起きをさせていただいておりましたが、それから毎日毎日心では迷い、悩んで、心が定まらないままでした。
おたすけに出掛けていた母が、途中でお腹を抱えて戻ってまいりまして、転がるようにして家の玄関先に倒れてしまいました。 どうも信仰の当初に助けていただいた腹膜と腸閉塞が再発をしたらしく、それはもう七転八倒の苦しみでした。 さっそく医者をと申しましたところ、母は「医者は呼ばなくてもいい、早く会長様に御理をいただいて」と言い残し、意識を失ってしまいました。 私は急のことゆえ、電報を打たせていただき、会長様の御理をひたすらに待たせていただきました。
「お母さん、定めたこととは何だろう」 「それはあなたのことだと思う。私が初子を会長様に差し上げますと申し上げたのですから」と母は申しました。 そのことについては、本人である私が定められないでいるのですから、迷っている私の身に吹いてくるはずなのに、なんで母の身上に吹いてきたのだろうかとその時は納得がいきませんでしたが、「成ってくるのが天の理。天の理なればすぐと受け取り、すぐと返すで。これを承知してくれ」とありますように、いまさらここで議論をしている時ではない。会長様のお言葉をお受けをさせていただきますと、名古屋のお教会の方を向いてお詫びと心定めをさせていただきまして、真柱様にいただいたおさづけの理のお初を母にお取り次ぎをさせていただきました。 それから二時間おきのおさづけをお取り次ぎさせていただき、母は大変楽になったと言うてくれ、まったく血の気もなかった母の顔に赤みが少しずつさしてまいりました。
まだ朝が明けたばかりというのに、今枝生五郎先生が夜行列車に乗っておたすけに来て下さいました。 先生は「会長様が「遠い沼津の地で遠藤母子がたすけてくれというて待っている。手紙などもどかしい。早くおたすけにいってやってくれ」と仰せくださり、沼津へまいりました」とおっしゃいました。
「会長様はあなたが入り込みの支度にちょっと行ってまいりますと言ってから、三,四日もしたら教会へ戻ってくるのだろうと思っておられたそうです。それが四日経っても五日経っても帰ってこない。この理が先々困ったことになってきては本人がかわいそうだ。どうしたら本人が気が付いて戻ってくるだろうと会長様は大変心配をしておられました。もう仕度などはいらない、教会へすぐ帰ってくるように」という会長様のおさとしでございました。
母は、今までの苦しみ痛みが嘘のようにすっきり鮮やかな御守護をいただきました。 そして「先生も今までなにも口にされてないからさぞかしお腹がすかれたことでしょう。おかゆさんを作らせていただきなさい」と言い、私はさっそくおかゆを作らせていただき、母にも食べてもらいました。母は「ああ、おいしかった」と言うて、常と変わらぬ元気を取り戻しました。
時に昭和二十二年七月十一日のことでございます。
母はきっと私の作ったあのおかゆの味を時々思い出しては通ってくれたことと思います。
さて教会に帰らせていただき、会長様にお詫びを申し上げた時のお話につきましては、長くなりますので今月末に入力させていただきます。 (後編へ続く)
※本文中に、適切ではない言葉を使用している場合がございますが、お言葉等の意味合いが変わってしまうため、そのまま掲載をさせていただいております。ご了承ください。
|