天理教 愛町分教会 愛春布教所

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万分の一の信仰

 

 この遠藤家がこのお道の信仰に入れていただいたのは、昭和十九年ぐらいのことと思います。戦中戦後のまことに混乱した時代に、愛町の信仰に入れていただいたわけですね。

 

まあ当時は、汽車もね、国鉄という時代で、もちろんその時代は急行もなければ特急もございません。鈍行、日本国中どこへ行くんでも鈍行しかなかった。ですから、さあお教会に運ばせて頂こうというと、約七時間はかかりました。ただいまは、二時間かからない。当時七時間はかかった。しかもね、私どもは昼間乗ったことがない。夜行、夜行列車でございます。夜行に乗って、名古屋の駅に着きますと、朝の六時くらいになります。まだ冬なんか真っ暗でございますね。そして、始発のヤゴト行きの電車に、駅前から乗りました。そして青柳町というところで下車をするのですが、時にはまだお教会の門が開いてない時も、開くのを待って入れていただいた時もございました。もちろん帰りも夜行でございまして、お教会で出来ても出来なくっても、めいっぱいひのきしんをさせていただいて、夜行に乗って帰らせていただきました。

 

そして、初めてお教会に参拝をさせて頂いた時のこと、初代の会長様が下さいましたお言葉は、これは単に遠藤家に頂いたお言葉ではないと思います。広く、お道の信仰をなさる方に是非とも聞いて頂いて、守って頂きたいと思うんですね。

 

お教会に参拝をさせて頂きました時に、会長様が「おまえさんたちが運んできたんじゃないよ。神様が、神様とぼくと、前生の善因縁に結ばれた親子関係をもって、因縁の場所に神様が連れてきて、信仰をこれからさせて下さるんだよ。お道を通らせて下さるんだよ。お前さんたちが信仰するんじゃないよ、させて頂くんだよ」とおっしゃいましてね。そうして、「沼津からこの名古屋までの間には何千という教会がある。大教会あり、分教会あり、布教所あり。おまえさんたちは、今日、その何千という教会を通り越して、この名古屋の愛町分教会に、ぼくのところに神様が連れてきて下さった。なぜかというと、この教会だったら、因縁の深い者を、なんとかこぼす事のなく、連れて通って下さるだろう。神様が連れてきて下さったんだろう」

 

「ここへ来るまでには何千という教会を通り越してきた」、確かにそうですね。当時、切符を買うのでも、遠距離の切符はお金を出してもすぐ買えるというものではありませんでした。沼津の駅では、一時間に百枚しか売らない。ですから、行列をして、切符を買わなければなりませんでした。運悪く、自分の二、三人前で打ち切られると、また一時間行列を致しました。そして、やっと汽車に乗ったと思うと、もう汽車の箱の中は満員でございます。仕方がございませんから、新聞紙を持っていって、通路に敷いて、そこに座るしかない。男の方なんかもうデッキにはみ出すようにしていましたね。まあこうして、行かせて頂く。ただ天理教のお教会にお参りしたらいいというようなものじゃありません。「たすかるというものであれば、近くにでもなんぼでも教会がある。例えて言えば、自分のお向かいに天理教があったとしても、自分に因縁のない教会に運んでもおまえさんたちはたすかっていかないよ」とおっしゃった。「この愛町分教会は、おまえさんたちと前生の善因縁によって神様が結んで下さったんだから、何千という教会を通り越して、お金を使って、難儀をして運ばせて頂かなければ、おまえさんたちはたすかっていかないよ」と会長様におっしゃて頂きました。

 

これだけの言葉でございますけれども、これをなるほどそういうもんかとお受けをさせていただいて、それから通らせて頂くということは、楽々の道ではございませんでした。今月はちょっとお金が足りないな、当時は段々と世界がもう戦争の末期に入ってまいりまして、自分のお預けした貯金であっても勝手に引き出すことはできなかった。一月一人いくらと、引き出す範囲が決められておりました。ですから、決められた生活の中から、お教会に運ばせて頂くということは、とても難しいことであったと思います。時には、つい人間考えをして、ああ今月はちょっと物入りがあるから、ああ今月は休ませて頂いて、来月にしようか、こう思ってですね、運ばなかった。運ばないわけですから、当然それだけの事情(お金)が浮くはずでございます。ところが不思議なことに浮かないんですね。反対に赤字になっちゃう。お金が足りなくなっちゃう。なんとかかんとか物入りがあってね、お金が足りなくなっちゃう。そればかりじゃないですよ。一ヶ月お教会に運ばないと、家の中がなんともむさくるしい。ちょいとしたことで親子喧嘩が始まり、姉妹喧嘩が始まる。家の中にそういうことがなければ、他所から争いごとが持ち込まれてくる。もうほんとに何ともかんとも言えない嫌な気分で一ヶ月過ごす。で、運ばせていただいた月は、それだけの事情(お金)が出ているのですから、大変だと思うけどそれが大変じゃない。ほどよく生活ができてる。また、家の中がいつもにこにこという感じ。外からも嫌なことが持ち込まれてこない。そうしたことを体験させて頂いて、なるほど会長様が「自分で信仰しているんじゃないよ、自分でお教会に運ばせていただくんじゃないよ。神様が前生の善因縁によってこの教会に連れてきて下さって、聞かせて下さるんだよ。信仰は自分でするんじゃない、神様がさせて下さるんだよ」と、おっしゃって頂いたことの意味が分かりました。また、こうしたことがね、度々ございましたね。信仰させて頂く中に度々ございましたから、よくよく、そういうもんか、確かに違いないということを承知をさせて頂きました。

 

 そして、会長様は、「月に一回運ぶなら祭典がいいよ」とおっしゃってくださった。「祭典がいいよ。おまえさんたちが月に一回運ばせていただくのと、この近郷近在の信者さんが月に五回運ばせていただくのとは、とんとんだ」とおっしゃいました。ですから、教会の近くの、またこの布教所の近くの信者さんは月に最低五回運ばせていただかないと、遠方から運んでくださる信者さんととんとんということになる。うっかり致しておりますと、『近くて遠い、遠くて近い理を悟れ』と、教会の近くにおいていただいているから、布教所の近くにおいていただいているから、なんでもかんでもたすかっていくというものじゃない。うっかりしていると、近くにおいていただいく者よりも、遠方においていただいている者のほうがずっとずっとたすかっている場合もあるということを教えてくださった。『遠くて近い、近くて遠い理を悟れ』

ですから、「遠方から来た者は当日おまいりだけをして帰っちゃいけないよ、まず前の日にきて、祭典の準備のひのきしんをさせていただきなさい。当日は祭典を勤める、そしてそれで帰っちゃいけないよ、泊めて頂いて、翌日の十三日には後片付けのひのきしんをさせていただく」とおっしゃいました。でも当時ね、泊めて頂く者はね、祭典が終わりましてもね、十二時前には休ませて頂けませんでしたね。御用があった。すぐ片付けなきゃならんという御用がありましてね、それが十二時頃まで掛かりましたね。そして、翌日は、昼はめいっぱいひのきしんをさせて頂いて、夜行で帰らせて頂いた。会長様は「こうして通らせて頂くと、近郷近在の信者さんが月に五日運ばせ頂くよりも、もっともっと神様からお徳が頂戴できるよ」というお話をその時にして下さいました。

このお話を聞かせていただきました初代の所長さんは、このことを生涯守られました。

どんなことがあってもこんなことがあっても、堅く守ってお通りになられた。やはり守って通って下さった。また、子供である私どもが守って通らせていただいて、こうして子孫が受け継いで守って通らせて頂いていることは誠にけっこうなことですね。

通らせてもらっているということは、お道の信仰をさせて頂いてるということは、つまりたすかっているということでございます。

会長様は「この教会の門をくぐって、助からんものは一人もないよ。この教会はたすかって当たり前、むしろたすからんほうが不思議な教会、乞食が大名になっていく信仰だよ」とおっしゃった。しかしながら、「これはたすけてもらうんじゃないよ、たすかっていくんだ。ぼくがこうして朝席お話をさせて頂くのは、ただ話をしているんじゃないよ。みなさん方が、どうやって通ったらたすかっていくかそれが分からないから、その方法を説いているんだから、ぼくの話はね、聞いただけではたすからないよ」とおっしゃった。

聞いた話が十は十、全部実行ということは誰にもできません。「それはぼくも知っている」と会長様はおっしゃいました。

「けど、ぼくの万分の一の信仰ならできるだろう。それでたすかっていけばけっこうじゃないか。難しい道は、教祖(おやさま)とこのぼくがみいんな通ってあげたから、みんなはぼくほどの苦労をしなくても、年限が経たなくっても、ぼくの万分の一の真似事の信仰をしてくれたら、万分の一の徳がもらえるはずだ」とおっしゃいました。

で、私は会長様に、「会長様、万分の一の信仰というのはどのような信仰でございますか」と尋ねた時に、会長様が教えてくださいました。

「ぼくの万分の一の信仰というのは、余った時間、余った体、余った事情(お金)があったら、勝手なところへいって使うのは後回しにして、まずもって神様の御用をさせてもらいなさい。それならみんなできるだろう。それでたすかっていけばけっこうじゃないか」とおっしゃられた。このようにね、会長様は教えてくださいました。「これがぼくの万分の一の真似事の信仰だよ」と。

 

聞かせていただいているお話を十が十、全部覚えておりません。まあ、その中の一つか二つ、その人の徳分に準じて、私は三つ覚えているという人もある。私は五つ覚えてるという人もある。何を話したか全然分からなかったという人もいる。それは分からなかったんじゃない、こちらにお話を聞かせて頂くだけの魂の徳がないということなんです。頭がいいから理解できるとか、ばかだから分からないとか、そういうもんじゃないんです、ねえ、このお話は。このお道のお話は、男も女も年寄りも子どもも、会長様は今生まれた子どもにもお話をしておやりとおっしゃいました。魂の徳で理解をしている。

じゃあ、その徳はどうやったらできるかというと、お教会に運ばせて頂いて、またこうやって布教所に運ばせて頂いて、それぞれの立場立場から神様の御用をさせていただく。そういうふうにさせて頂くことによって、知らず知らずの中に魂に徳がそなわって参ります。そうすると、なるほどそうに違いない、まったくそうだ、よし、これを行いに移して通らせて頂こうということになるけど、分からんうちは、魂に徳のない間は仕方がございませんから、おっしゃって頂いていることをそのまんま、鵜呑みに飲み込んで頂く。これを「言われしままに、通れや通れ、道のため」と、素直になりなさい、言われた通り、はいはいとお受けをさせて頂いて人間考えしちゃいけないよと、教えて下さいました。ああこうと人間で考えをして、まだなってこない、まだやめとこう、ちょっとまて、これがいけません。素直になんなさい。素直に。

ですから、素直になれないということは、川の流れに逆流していくことです。川の水というのは、高いところから低いところ低いところへ流れていって、やがて大海に流れていく。こうしていたら、氾濫は致しません。水かさが上がっていって、川の水が逆に流れていくから、氾濫するんです。つまり、お道のお話も素直に聞かないということは、氾濫する、逆に海の水が川に流れてくる、それではこまっちゃうじゃないですか。ですから「素直になるんだよ。ねえ、そうすると、川下には何でも宝物があるよ」とおっしゃった。金銀という宝物は、山のてっぺんにはない、川の低いところに採れる。家を建てる時には、ヒノキの官材が一番良い木ですが、四面無節なんて、節の無いヒノキなんて、山の上にはできません。どこにできるのかというと、川の水が流れる低いところに、谷あいのジメジメしたところに良いヒノキができるんだそうです。

 

聞かせていただいたお話を、分かっても分からなくっても、ああそういうもんか、通って下さった会長様が確かな道として説くんですから、そういうもんかとお受けをさせて頂くということは、これは勇気がなければできない。まだ通ってないんだから分からない。いい加減な気分ではできない。こんなことを聞いて、もし騙されたらどうしようと思ったら受けられません。その方を信じます、その方の言うことは絶対信じますという心にならせてもらうのには、勇気がいります。騙されてもいい。まあ、人間はお金に騙されたり、人に騙されたり、勝負事で騙されたり、いろいろありますけれども、まあ同じ騙されても、神様に騙されるのならけっこうじゃないかという気持ちになって、お受けをさせて頂く。その中の一つでも二つでも日常生活の中に実行に移して参ります。そうすると神様が『ごくろうさん、ようやってくれたね。まあ、ちょっと少しばかりご褒美をあげようかなあ』といって、喜ばせて頂けることをお見せくださる。人間はついつい、やらんうちから先にご褒美をもらいたがる。だから、たすかっていかない。ご褒美は実行に移して通らせてもらってから神様から頂くものであって、人間がくださいといってお願いして頂けるものではございません。これについて、初代の会長様が「ぼくの万分の一の信仰をしなさい」とおっしゃった。「それならみんなできるだろう。それでたすかっていけばけっこうじゃないか。しかしながら、私の万分の一の信仰といったらすばらしんだよ」とおっしゃった。どのようにすばらしいかというと、「この道を聞かせて頂く時に、こまってこまってどうにもならなかった方が、気が付いたら、反対にたすかってたすかってこまるようになったという姿が万分の一の徳をもらった姿だ」と、かように初代の会長様はお話下さいました。

 

このお言葉は、何十年経ちましても、忘れることはできません。そのお言葉をめどうとして、私も通れても通れなくっても通らせて頂く。また、みなさんにもこのお話を聞いて頂いて、みなさんにも通って頂いて、みなさんにもたすかって頂きたいという、これが私の気持ちでございます。自分がたすかったって、自分だけたすかればいいってもんじゃありません。人さんにもたすかって頂かにゃあ。これが“たすけあい”、人間の道でございます。このけっこうなお話を人に話すことはない、うちだけで実行してうちだけたすかればいい、人はどうなってもいいっていうのは、人間の道じゃないそうです。それは獣の道です。卑俗の道でございます。私は人間の道を初代会長様から教えて頂いたのですから、教えて頂いた人間の道を、通れても通れなくっても通らせて頂くことが大切でございます。

今日はこんなところでとどめさせて頂きます。また次の機会に、初代会長様に教えて頂いて、通らせて頂いたお話をさせて頂きます。

 

 

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