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おたすけによって己を知る

 

 

4月7日、爛漫と咲きそろった満開の桜を眺めながら布教所を出発し、お教会の月次祭をつとめさせていただき、13日に布教所に戻らせていただきましたところ、布教所のお庭は、まるでピンク色の花のじゅうだんを敷き詰めたように、ふぶいて散った桜の花びらでいっぱいでした。
私は世にも美しい光景に、しみじみと今日もまた神様に生かされていることの喜びを味合わせていただきました。

 

先頃メールをくださいました秋田県の角館の用木の方のお話では、御当地はまだ花芽がやっと膨らみかけたばかりで、桜の見頃は4月中旬〜下旬頃になりますと書いてありました。
これからしばらくの間、桜前線は南から北へと進んでいって、日本のどこかで桜を眺めることができましょう。
とにもかくにも、桜の花とは、来年までお別れでございます。
「明日ありと思う心のあだ桜 夜半(よわ)の嵐に散りにけるかも」読み人知らず――
という桜の花を詠んだ和歌がございます。
3月は、色々な事情で、心ならずも、ホームページを更新させていただけなかったことが、大変申し訳なく、悔やまれておりました。
この和歌のようになりましては大変なことでございます。
そうだ、今日は何としても、4月分として再度お話を書かせていただこうと思い立ちまして、ペンをとらせていただいた次第でございます。
 
さて、ある日のこと、初代会長様のご昼食時の出来事でございます。
お食事のお支度が整いまして、初代会長様がお座布団の上にお座りになられた際、私は不覚にも、調味料の“一味唐辛子”がお膳の上に乗っていないことに気がついたのです。
あわててお勝手に走りましたが、そこで、急いでいたあまり、棚の上の唐辛子を取ろうとしたところ、誤って容器を逆さにしてしまい、中からドバッーと、私の顔めがけ、真っ赤な唐辛子の粉が、降り懸かってきたのでした。
まさに、自分で自分の顔に向かって目つぶしをくわせたようなものでございまして、その時の痛みは、何十年経ちました今日でも忘れることができません…。
 
大声をあげ、手当たり次第に走り歩きたい激痛でしたが、お教会の中ですので、それもできません。
思わず、傍におられた御婦人に、「すみません!貴女の舌で私の眼の中を舐めてください!」と叫びましたところ、その方は「わかった!わかった!」と承諾してくださって、すぐさま私の眼の中を、水で口をゆすいでは舐めてくださいました。
そうしてようやく激痛をとめることができたのです。
 
この突然の変わった出来事について、私は初代会長様にお伺いをさせていただきました。

しかしながら、その時、初代会長様のお口から出たお言葉は、思いもよらない、恐ろしいお言葉でした。
「僕はね、自分のつかっている人間を、ここから“縄付き”にして出したくないよ」
 
「縄付き」とは、「罪人」、警察の御用になる者のことをいいます。
私は、まさか!と、腰をぬかすくらいびっくりいたしました。
なんと恐ろしいことであろう。前生ではない今生、これから先お道を通らせていただく中に、そういったことが起きてくるのか。私にはそんなに恐ろしい因縁があったのであろうか。
会長様は言葉を続けられ、「そういう因縁があるとしたら、これから先、いい加減な信仰では通れないよ。そこに迫ってゆく因縁の理を、“理”だけお見せいただいて、その中を抜けさせていただかなければならない。大きな節を乗り越えさせていただくのだから、今日からは、お前さんは、誰の言う事も聞かなくてよい。神様と僕の言う事を聞いて通らせてもらいなさい。わかったかい」という、尊いおさとしのお言葉をくださいました。
 
しかしながら、一日経ち、二日経つ中に、いろいろな日常の御用にかまけて、会長様のこのお言葉を、忘れるともなく、ずっと忘れて通っておりました。
 
ある日のこと、私ははからずも、刑務所に収監をされている、ある服役囚のおたすけに出掛けさせていただくことになりました。
この男性は、教会の長期ひのきしんの入り込み者でしたが、教会に入り込む前に起こした事件から、愛知刑務所に収監をされておりました。
 
当時の愛知刑務所は、ただ今の吹上公園の現在地に建っており、私は、刑務所の門の前を通りすぎるたび、刑務所は恐ろしい所…中には絶対に入ってはならない恐ろしい所…と、恐れておりましたので、その門の前にいざ立ちますと、思わず、足がすくみました。
 
そうやってしばらく、門の前を行きつ戻りつしておりましたが、やっと心を定めて、「神様教祖様会長様お願いいたします」と申し上げ、「ようし!」と胸を叩き、意を決して、守衛さんに、声を掛けました。
「私は、この近くにあります愛町分教会の者ですが、ここにお世話になっております者におたすけに参りました。是非とも面会をさせていただきたいので、お取りはからいください」
すると、中から出てこられた守衛さんは、「ただ今のところは、両親以外は面会が許されておりません」と言われました。
私は、「そう言われましても、この中では、教戒師と言う肩書を持った方々が何人かおられて、服役囚にお話をされているでしょう!私も同じ布教師です!何とか法は法として、まげてお願いできないでしょうか?」と、今から思いますと、若さのあまり、誠に無鉄砲な事であったとは思いますが、その時は一生懸命でした。
収監されているその青年がやってしまった事は、今更悔やんでも仕方のないことだが、少しでも早く、己のやったことに対して前非を悔いて、再び同じ事を繰り返さないように、また、この刑務所内での掟を守って、低い心になって通らせてもらい、早く帰ってきてもらいたいという思いでいっぱいした。
初代会長様は、この青年さんが刑務所に入るにあたり、「ここから(教会)ゆくんだよ。そうして必ずここへ戻って来て、お道をさせていただくのだよ」とお言葉をかけてくださっておりましたので、この会長様のお言葉を必ず必ず心におさめて、この青年に間違いなく教会へ戻って来てもらいたいという思いで夢中でございました。
 
守衛さんは、何を言っても聞こうとせず、面会をさせてくれ!と無理をお願いする私に困ってしまったのでしょう。「しばらくお待ちください」と言うて、どこへやら姿を消してしまいました。
そしてしばらくして戻ってこられて、「刑務所長があなたにお会いすると言うておられますので、私がこれから案内いたします」と言われ、連れて行かれた所は、刑務所のずっと奥にある所長室でした。
所長室に入ると、所長様がまずこう言われました。
「私も、関根豊松先生が、霊験あらたかなご立派な宗教家であることはよく存じ上げております。しかしながら、法は法、法を曲げるわけにはまいりません。ですから、面会を許すことはできません。しかしながら、あなたの人を助けたいという一生懸命に対してお答えしてあげる方法が一つあります。その人間に、あなたからの差し入れを許しましょう。その差し入れの帯に本人の名前を書いてあげてください。必ずお渡ししますから。そうしたら、あなたの思いは、本人の心に必ずや届きましょう。」とおっしゃってくださいました。
 
法は曲げられないが、人の心を伝えてくださった所長様に、私は心から御礼を申し上げました。
本来なら、両親以外の差し入れはまだ許されていませんでした。私の無茶苦茶な行動の中にも一生懸命の心を受け取っていただけたのでしょうか。
所長様に差し入れの品々をお渡しし、お別れをいたしまして、元の門の場所に戻ってまいりました。

そして、守衛さんにも心から御礼を申し上げ、門の外に出て、思わず刑務所の高い塀を見上げた時、忘れておりました初代会長様の「僕はね、自分が使っている人間をここから“縄付き”にして出したくないよ」と仰せくださったお言葉を思い出しました。
門をくぐってから、門を出るまで、約1時間半くらいでございましたが、刑務所に入らなければならない運命の者が、刑務所に収監されている方のお世話をする因縁で、お連れ通りいただいたのでございます。
「道一筋を通らせていただく者は、見る因縁、聞く因縁、また世話する因縁で、通らせてもらうのだよ。自分が因縁通りなってしまっては、道をやっていないということになるのだよ」とお教えいただいておりましたが、改めて初代会長様のお徳の尊いこと、またありがたいことをしみじみと感じさせていただきました。
 
やがて、その青年は、刑期を終えて、無事戻ってまいりまして、初代会長様から「本来なら、お前さんのような人間は教会にはおけないのだが、僕には徳があるから大丈夫だよ。だからお前さん、僕から離れてはいけないよ。教会においていただいて、しっかり魂に徳をつませていただくのだよ。さあこれからは、僕と一緒にお道を通らせてもらおう。」というお言葉を頂戴いたしました。
青年は、それから生まれ変わったようにだんだんと良い人に変わってまいりまして、会長様の言われる事は何でもハイハイと聞いて通りまして、ただ今の神殿の御普請のひのきしんを勤められ、その完成を見せていただいてから、郷里に帰りました。
そして、帰ってから始めたお商売もすばらしい発展を見せていただくことができ、やがてライオンズの五役をいただき、その後さらに、会長という社会的に大変名誉なお役をいただいたのです。


因縁の深い者がどうしてそこまでゆくことができたのか?

何も難しい事はないのです。
一時なりとも、自分を捨てて、初代会長様のお言葉を何も思わん心で受けさせていただいて、通れても通れなくても、通らせていただく努力をさせていただいたからでございます。
神様の言うことを聞いて、どんな中も通らせていただこうというのですから、神様は、道を通れるように、その者に徳を与えてくださるのでございます。

それを忘れてはなりません。

高い立場に昇れるのも、お金の中にうずまってゆくのも、みなお道の通りやすいように神様がしてくださっているのです。
つまり、言うまでもないことですが、大切な事は、自分が助かったのではない、自分がけっこうになっているのではない、天理教が助かって、教会が助かって、会長様が助かっているのでございます。
では、自分が助かってゆくのにはどうしたらよいのか?
それは、このホームページでも幾度となく書かせていただいておりますが、「
自分の助かったお話を、人さんに聞いていただくことによって、本当に自分が助かってゆく」のだと、会長様は教えてくださいました。
 
今回は、私がいただいたおさとしを台として、お話を書かせていただきました。
この青年さんにまつわるおたすけの軌跡は、また機会をいただいて書かせていただきます。

 

 

  

 

 

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