神様の理を立ててゆく道
あじさいの花は、シトシトと静かに降る雨に打たれて咲いている時のほうが美しい――
また今年もその花を見ることができて、嬉しく、幸せを感じます。
六月は、何かと行事に追い掛けられて、アッという中に七月に入ってしまいました。
さて、最近、私のところに、「助けてください」「お願いします」というメールを時々頂戴しておりますが、そのたびに、私は、初代会長様のお言葉を思い出します。
「何も難しいことはありません。お道の信仰は助かって当たり前であって、むしろ助からんほうが不思議だよ。神様は、道を通る者を、決して困らせないよ。何があっても、この先、大丈夫だよ。何故かなれば、困ったら、皆がお道ができなくなるだろう。それでは神様もお困りになるではないか。とは申せ、形では一生懸命お道をやっているようなふりをして、肝心な心がそっぽを向いていたんでは、神様は助けてくださらないよ。誰でもお道の好きな人間は一人もいないよ。それでも助かりたかったら、好きになるように努力をしたら良いではないか。つまり、こうして通らせてもらったら必ず助かるよと教えていただいた道を、素直にお受けをさせていただいて通ってみたらよいではないか。神様を疑って、行うこともせずして、ただ助かりたいと言うても助かってゆくものではないよ。神様はただ助けるとは一言も言うていないよ。私の話を聞いて(守って)助かりなさい」と、教えてくださいました。
さて、お話は変わりますが、ある時、私が会長様のお茶碗を割ってしまった時のことでございます。
ですが、私は、なかなか徳がございませんので、会長様のお言葉が理解できませんでした。
そんな具合ですから、私は、たびたび粗相をいたしました。
ただ、だんだんと年限が経つほどに、魂に徳をいただけるようになりまして、「教会は働くところではない。神様の理につとめるところである」というお言葉が、なるほどなるほどとして、分からせていただけるようになりました。
誠に分からないということは、致し方のないものでして、表で徳を積んで、裏で一生懸命因縁を積んでいてはどうにもなりません。 自分では立派にお道の信仰をしているつもりでございましたが、教えていただいても、教えてくださった方が違っているように思った時がございました。
なお、会長様は言葉を重ねられて、「茶碗を洗うからというて、言われたとおり三つ四つ桶に入れて洗えば十分というものではないよ。そこに心が伴わなければ、本当にお道を通らせていただいているとは言えないのだよ。では、どのような心の運びをさせていただいたらよいのだろう。それは、お茶碗に向かって、お礼を言わして貰うのだよ。『どうもありがとう。あなたのおかげでご飯をおいしくいただくことができました。ありがとう』と、言葉を出したら人がおかしく思うから、心の中でお礼をいうのだよ。そうして心を入れて通らせていただくと、先々食べ物に不自由しなくなるのだよ」と、このようにして、会長様は、形だけでなく、心の運び方、心の治め方を、朝眼が覚めて夜休ませていただく四六時中に、一つ一つ事細かく教えてくださったのでございます。
今回は、折に触れ、事に当たって教えていただきました数々の中から、その一こまをここに書かせていただきました。 初代会長様は、どのように時代が変わろうとも、色あせることのない珠玉のお言葉を通して、人間の道を教えてくださいました。
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